2010年4月20日

解釈論と批評論

大衆文芸の文脈と近代の教養風土の一致は危うい。そこに結束主義、fascismの芽が羽含まれる限り絶対な個人の自由は守られていい。こういう文芸は、特に虚構と詭弁を活かした物語小説を使って大衆の思想をどこかへ一くくりにしたがるだろう。そしてその観点が、ある個性の想像力を通した世界観への帰依に類似している間、我々は原理主義とこの文脈の一点集中とが時間の中では同じ働きであるのを注意せねばならない。乃ち解釈論の土壌は物語と小説の流布よりも鋭く、重要視されるを得る。批評の性能がこの解釈への詳細によっているので、覇権な文芸は次の文脈で即座に解体され文化な形、たとえば文字面や服飾と似た軽い話題へ希釈されていい。さもないと大衆思想と覇権文学は限りなく近づきがちで、この事情は自由化に反するだろう。信ずるに足らない事実は解釈されうる何らかの理学に属しており、それはみな似た説明が違う文脈におきかえられるなる唯一回でなさの本に訳ある。だから引用と断片のつらなりで原本らしさを失わすどの解釈文芸も、自己文化素の反復で原理主義を標榜したがる全ての小説や物語よりその意義では貴い。批評はこの観点に着く。注釈と呼ばれる世界は、又これらの連綿とした脱構築から己の真の意味を自覚し、民族語としての文化素の拡大のみに本当に信ずるに足る信のありかを見つけゆくだろう。