2010年4月20日

国家神道の批判

本居宣長の赤子知る物のあわれ説はルソー等の生得白紙論と同じ無政府思想を、神道の正当化の為に彼独自で焼き直したものに見える。小児科医の経験がこの赤子の心を全面的に肯く理学を生み出したか。
 が社会内闘争が理知という大人の論理をつくりあげるとして、問題はそれがどう用いられていくかの方だ。大人の論理に護られねば赤子の心も少したりとも存続できない。感性という理念の全面肯定は、理知の両極を否定したがる見方、つまり禅でいう空無論を正当化する。いわば国家神道の正道視そのものが理知で語られたものでしかない。国学で自然の儘とされる神道が対外思想としてヤマト朝廷の理学上へ求められた過去を冷厳に分析した方がいい。国家理学と同一視された種の神道とは民族差別の方便だ。我々はこの思想への帰依のみを真の日本風道徳と思い為す根拠をもたない。仮にそれがあるとすれば国粋思想での独自論の側面か単なる国風でしかない。彼等の奉ずる我が国の伝統とはその位のものであり、又その位に留まるべきものでもある。
 冷静にみて、防衛の為の理念と国家神道には何も関連の必然さはない。国家神道自体にも分流は甚だしいのが自然で、ヤマト朝廷で行われたその伊勢本宮への強烈な自己帰依化は一つの仕業というしかなく、全ての自然崇拝からの帰結とも言い切れないのが真実だ。天皇制度の正当化としての国家神道は、関西地方で信奉されるのに偶像礼拝の解りやすい形式のため効果をもってきたのだろうが、日本人すべてに普く利用や理想視されていい方針とも考えられない。それは別の宗教からみればゆくすえ浅ましいやり口だからだ。
 本居での国粋思想風の側面を国家神道たす軍隊の掌握へ用いた明治から昭和までの薩長藩閥及び公家系の政治家の過半は、これらの武力と理学の違いを頭の中に納める余裕や余地がなかった。急がば回れとは実践理性の段階が、行政面でも一つずつしか人類史の課題を説き明かさない消去法風の土台を示すに、ここでは留まる。武権なる物騒な国家内権力を一まとめにしてきた徳川家は、この面では神聖不可侵の領域な人民が直接仰ぐべからざる皇室を実権の奥へかくしておいた点で、いかなる明治維新期以後の主要行政家よりも格上の判断力をもっていたのだった。彼等は賢明にも式目や法度という法典の権威を錦にその神聖領域化を恒常体として果たそうとした。そうすればもし武威で平衡させた覇権の秤りが何かの拍子で崩れて、も法治の泰平さに乗じた野心の侵略者はその構図を必ず再活用したくなる。我々が実権力と幕府の区分けをこれらの智恵の元に営んできた理由は決して国家神道の本質な思想に向けてではなかった。考え浅き新政府とやらは自らの浅慮の為彼等が長年依存してきて気づかなかった重要な理学である二重構造の巧みをおのずと破壊させてしまった。つまり、今となっては表沙汰となった天皇制度の虚勢は誰の眼にも明らかで、国粋したいものにとってすらそうなのだ。こういう状況は物のあわれ説で包含しきれる崩壊でもない。国家神道の本旨が偶像崇拝とつなげられる論拠はヤマト朝廷からの万世一系論が民族差別しやすい僻地な国土統治にとっての主柱だった事であるから、我々が多人種の混濁を避け続けるつもりでないなら象徴制の体面にしか用いられえないと言える。結局、武力と神道の接続は幕末で公家の一員が主導したとはいえ、彼等の野心の為に悲惨な結末を招いたし我々がその必然さを同情せねばならぬ道理もない。乃ち武士道、国家神道、及び平安文芸の物のあわれ表現とは別の系統と論拠を保つもので一つでは全くない。しかも、我々がどの思想を信念や宣伝に採用しようとそれらを政府の主人公らと絡み合わせようとすべき理由はどこにもない。これらの思想と信教の自由は地域社会内の功利さの規則へ還元されるを得る。私見を述べれば、平安文芸で儚さが強調されたのはそこが空虚な権力の適所で、権力闘争が行われる主舞台では全然なかったという天敵なき人類の呆け加減で全て説明がつく。