2010年4月20日

権利論

なぜ人類が地上権を主義できたかは偶有の適所がその空想を逞しくした訳合い已。とすれば地上権の破格には訳ある。キリスト教義は信仰を除けば、神からの貸与が贖罪で持続した観点をとれるがこの本質は、全然進化論の破格合理性とは合っていない。故もし科学教との妥協を見つけだしたくば別の要点に目を転じるを得る。つまり地上権は人類の自由に任された間は信仰の土壌と同じ風紀に叶う。もしこの地位がなくなれば、どう考えても人間性は神への本来の償いに足るほど立派でなくなっている事になる。結局空中権ふくむ空間権と地上権とは同じ根拠で処理されていい。それは暫定の規則と呼べる。この地位は、生態な安定によった仮のはかりであり、全生命への全時代での統帥の権利ではなく、事実は現にある能力に依存する。斯く思えば創造説は、神の名のもとに我々が正しい道を歩んでいる証拠として留保できる。だが永遠な保証に対してこの説はいわゆる清教徒精神の天職倫理と同じ結論を持つ丈であり、しかもその合理づけ自体は国連運営の努力と尽力にも当然及ぶ筈。こうして、権利暫定則は生態学の応用内での広域な行政規範と今の所いえるので或る程度の必要で、個々の信教を超えた協調性も構わないと倫理上で考えていい。