2010年4月16日

現代倫理の再考

自然知識の数理的比例が信仰対象になっていた時代は近代化が及ぼしえた工業の効用にほぼ依っていたと思える。自然界の利用思想はフランシス・ベーコンが定式づけた理性の優位を担保としその征服を合理化してきた。実際にそこから得る物も多かったが、この信仰体系は又学問の神聖化と似て誤った権威づけにも余波をもった。自然知識はどんな倫理も説明できない。こちらの規則は自らつけるものなので。
 場所毎の自然は違う趣を選ばせるが、対して自然が誘なう感覚はそこでの倫理原則をも全く違える。故自然知識は工業倫理から見た感覚的真理や信念の核だったが、それを超えない。つまり自然哲学への崇拝は一時代の流行潮流のみ。結局、工業からの急発展が及んだ地域外ではどこでもそれは知識の一部としてしか省みられない。同じく、社会内倫理を他の動物類の侭に室礼えようとする思想、ダーウィニズムか社会進化論は特殊条件下にあり、かなり余裕のある社会では採られない。結論をいえば自然哲学の崇拝は何れ我々が過ぎ来た各固執の体験と類似している。それ自体が社会問題の全部を改善し尽くすと断言できる根拠が今の所ない。故に科学以外の信念を軽視せずできれば維持保存している事は、それのみを信奉する集団より有徳な可能性がある。民俗学の域を超えて、細かな暮らしの知恵はそこでの倫理規制を別の観点から抽出したものかも。科学知識とやらの重要さはそれが経験論の土壌で発酵していく限り百科全書的客体をつくり、我々が義務として身につける体系ではなくなるという知恵の外部化にありそうだ。そして本質に、近代化が用いた最も有意義な潮流は、これらが導いた宗教義務の軽減と生活合理化の側面にあると思われる。だが、科学知識自体には不確定さや漸進さが免れていないので、その方針は常に道具地位に留まるをえる。べきの問題は数理作用とは別の補完した公理系からの注釈でのみ、便宜に解ける。この事実は、考えが母集合としての既存の科学系には回収されきらない一種の言語作業を示している。より精密にいえば、実践理性は可解問題を超えているかその上にある。定義として倫理は不可解命題への絶えざる解説に過ぎない。これらが教えているのは、形而上学の問題は観察のみでは解きえない社会課題への気づきから生まれた、独自の公理系の構築な事。現代倫理は自然科学とは違う。かくの事情が潮流たる工業侵略やその担保たる力学を信奉すべき倫理と見做す可きでない観点を啓く。いわばこの行いは地柄と個性な已。つまり近代化は義務付けられなくてよい上、植民含む工業文化の他地域への侵略さえ正当視できない。それは自然科学が同好会の信仰でしかない限り、学習する個性や地霊を均すのが全場合に最善ではないから。