2010年4月1日

協調の把握

一般の冗長さの意義は、それがもつ程度こそあれ法則的でない認識への労力の振り向けにあるらしい。之は謂わば何が真に道徳かを別の言い方でもつくりかえる仕草に程度の良さが求まる。だから冗長さを達しないどの認識論でさえ、必ずしも次世代の参照に足る奥行きを覚えない。しかも言い換えの巧みなたちは、何れまとわずどこへ諦観外の振り返りがあるかを説き明かす。即ち最も定まり動かぬ世界認識の恒常さは、一般の冗長さがその公理系内の手段へもついくらもの把握法へ因みを有す。気遣いと言われる想像される世間内規則へのたえざるくみかえの感覚論は、冗長さから導かれる文化での把握法によるのが殆ど。そしてここへは必ずしも某諦観の奥行き、たとえば形而上か後自然コウシゼンの行かしさを伴わない。つまり独自につくりこまれう社交規則は、それが認識に限られた把握法という望ましい労力、具体的には何を以て気づかいの功徳と見做すのかを生活での不可逆の経過へと落し込む効果をもつ。
 経験論から営めるどの知識も、それが未知の事態での迅速な社交さのくみかえには凡そ運命選択での細部で叶わないことから、生き残り戦での欠かせぬ判断力規範には決してなりえない。もっといえば如何に自然法則へ叶おうと、道徳原則は常にそれを更新してしまう。神のおもいは何を以てさえこの種の把握法が即時か定格で発揮されう基盤を、我々の複数集団以上での協同義理へと託していく。故に、もし地球型感覚基盤をもたないどの生態にあれ、状況把握についての不規則さへの広がりか臨みは、有徳さが神意にとっての唯一の規範でありこの保存こそ、突然変異から望ましい生態への改めを普通の群れにも与えゆく。道理という言葉は決まって至りえない一つの規範を自ずと生み出す性質、つまりこの種の把握法が、直截には労いへの事細かな認識を趣味論の観察と洞察能へと担わせるに足る、と教う。天命思想の本来の意義は、同じくこういう原理的洞察が群れの統率という絶対不可逆の啓蒙に才を見出ださせるのを合理化や正当化できる処。でないとどんな個性も指導者を何らかの誤解で選んでいく結果、状況への適宜さは趣味の優れた群れにあってよりも遅れるか過ちを重ね、主にかなりの世代数の後には雲泥の差を遺伝された形質及び生態法則の変形についてあまねく覚えるしかない。