現象学系列が予言してる様、言語論の表音と表意の二分法は粗い。差延界と解釈界を見比べれば配分の理は主観に戻る。いわば用法と慣れが語学の達を偏らす已。
もし音形意味の文面に返れば夫々の文字や記号はみな筆跡。かつ筆あとは慣れ以外の定例さを伴いえない。つまり文字面は撥ね返る主観の跡で、それは読み書きの相対さに普し。全て文書は言葉へこの反射能を伴い、事例にみて民族空間で使い分けの理由さと相伴う。そして脱構築自体はどこでもできるし程あれされている。結局文芸の巧みは配分の適宜が具合よい偶有さと重なる丈の物かも。図形と象形文字は図式概念でまとめられるので、定形文字種もこの複合化とみなせる。故文物の概念は一切の平面記述と等しくなる。絵も色彩によるあやものなら、記号から意味らしさを除いた音符での楽譜も。もし現象論に限度があればそれは之等の表現の力による。学識と呼べる達にとってすら精神内容や想像の記述で果たされるを得るので、民族学の領域へ還される。ので一切の普遍現象学は不可能。全ての現象表現は原則、囲われた限定語の範畴を援用して営まれるを得るから一回さを可逆形態の程度を問わず、何れ伴う。わざを除いて形而上学域では理想論がこの民族領と均しい。これはもっと俗には俚諺と呼ばれていい境界へ納まる。恐らく大儀な民俗では理想論は理想学とおぼわれる。しかし語尾か漢字選択の問題だけでなく、例えば福沢諭吉『文明論之概略』緒言での文明の全体論への希望の如き、体系立った理想への志は普通、哲学といわれる、社会な生態を含め或る個人や集団で獲られた全形而下学識の総合分量へ求むより他にない。理念が最小最大則で喩えた最高の抽出か抽象の言辞や言い方なら、俚諺はその民族での智恵の当界隈での極限を言い示す諭しの為にある。要するに哲学と訳されている智恵を求めた学問の成果はその理想を論じる活動のみへ結晶する。これは民族現象論としての伝えられる独特さ、乃ち言い回しの固有な差延量にしか規定のみならず究極されそうもない。だから研究度がそのまま、民族内の表現と現象へ趣を付与する。
理解に程度があるなら、判断力と訳されたカントの定義も同様な指導に返る。どの志も理想論の内に伝わりつく。ましてや、民族間では語学と文芸研究が遅れて考証に入るのが普通であり、この文を学ぶ作業は口語の中へも広がった何らかの諺を既存知識を頼りに過ぎ去る現のなりわいを追い駆けているのだ。しかし象徴の当為を熟知していれば、彼は世界精神が徐々に自覚されていく順繰りの学び合いしかそれら、どの文化参照にも見つけないが猶、まるでそうしないより優れた翻訳や解読は遥か善良な仕業である。こうして聖書も入れたどの文物へも、その神聖化と唯一回らしさは不純な用法で用義であるとされるし、我々が協力への快さを保つつもりなら訳業と、少なくとも改変の意図を伴わない解説の仕事は民族毎の選れた自律によるべきである。さもなくば聖書とされる風変わりなあや若しくは神秘らしき語句は死んだも同然の古物村へ引き篭ってしまい、我々が古人から何かを託される文化の重畳さも失われ温故知新の旨へは背くが如くになり兼ねない。