2010年4月2日

現代経済学

資本経済の矛盾は福祉経済では完全に解消しきれない。後者はいわゆる生協主義(associationism)の部分集合も含み、国家経営論を無効化へ持ち越せないから。

国連への所得調整の義務づけ以前にはどの国家間の貿易も外交官の交渉の場でしかしかも最低限にしか規制されず、どんな国家撤廃論もその段階では無用と考えるしかない。つまり福祉国家そのものは必ず資本経済の確立された国よりも損が膨らむ。之は外資の税調が誘因面からも限られるから。
「多国籍企業立地関税」自体は、ゆえ資本経済体制を維持していくつもりの国家では必須。でないと、国民ではなく超大企業に全国土そのものが買収されてしまうかしまえることになる。より身近には風土が荒らされても何も言えない。多国籍企業の文化破壊に対しては自治体からの調整が要るからその税調は、資本経済体制下でこそ前提。

 処で、繁殖確率についての雇用の隙間が、(例えば近代化中途でのシンガポールでの様に)歪んだ人口構成を時に生むのをどう分析すべきか。
之は貧乏子沢山という諺の如く、文化段階より再生産速度を好む世帯が、資本経済下では制度の隙を使って入り込むのを防ぎ切れない事による。社民政策が介在すればこの傾向はより強まる。
 結局、もし代弁という形で真の上流たるべき教養世帯から見做すと、資本経済による大衆の増産は社会内での自然淘汰に任せるのが最も穏当だろう。
より簡明にいえば「不必要には手助けしない」事、福祉国家論全般が所得選好のつよい温帯以南の地域では頻発するだろう制度のただ乗りに隙を与える必然性あることから、社会民主主義(階級闘争論を除けば民主社会主義)の堕落に付き合わない事が経済道義面で有効。
こういう地域では全く手助けしなくとも貧乏子沢山の傾向は強まり続けてくるので何の問題もない。少子高齢化など何の不安課題でもない。
なぜなら高齢者が支配している搾取か吸い上げている賃金が還流されさえすれば、その社会は突如経済成長と呼ばれる総生産面での爆発的増産に進むのは明らかで、要するに自殺や姨捨が禁忌である社会条件では、高齢者はその社会の重しとして生産と消費の邪魔をしつけるが、我々はこの内部不経済と同時に資産家を中心とした主には青年層の猶予期間を延長させる。
この種の社会条件、重たい老人の多い国家は福祉経済を望まない方が賢い。なぜならここでの資産の偏りは、貧乏子沢山とは正反対の力線として猶予層か高等遊民を多く育み、文化段階を発展させる効果がとても高いのだから。これを『資産淘汰』と呼べる。
この効果が最も自然で、弱者の道徳とは一般な経済状態の体面としては必ずしも一致しないが(つまり公の宗教感覚に大部分よるが)、商誘因の高い場所では最良なのが温帯の基礎に省みれば明らか。但し、元々経済界よりも別の伸びを負い易い食糧安定下温帯外では場合によって全くこの原則は無効だ。

資産淘汰は温帯の基礎では最も手早く中産階級員の過不足を淘げる。もし資産がなくなれば彼らは殖えられず死滅か盗賊となり、ごく少ないか貧しい文化場で最大数の子孫を育てたがる。
だが社会がこれを自然の在り方(祖先からの功徳の不足とみなして)と考えれば、他の方法でこの飢えた大衆か貧民を優遇するよりはましな結果が出る。則ち優れて文化段階の高い少数の資産家から少ない数の子息が育ち、また彼らの重しで(但し、何らかの魅力で国内に留まる期間が殆どな時)中産集団の増減が自動調節されるのだ。