2005年10月30日

都会

時間が経過するに従っていくらかの風景が流れ、ちょっとした空間の変化があった。君はその中に含まれている。どんな終わりもなく始まりもない。とにかく君は実存している。それが全て。
 東京のどこかを君は歩いている。空は赤紫色に光り輝き、破壊された自然の表象を物語っている。辺りには匿名的な大衆が蠢いている。そして目指すべき当てもなく君は歩き続けている。構築された世界は確かに、以前よりずっと不満の少ないそれかも知れない。どんな意味合いに於いても経済的合理性を指向した近代都市がここにある。君はその緻密な部分だ。
 数え切れない通行人に向けられたきらびやかな広告看板があでやかな律動を生み出している。だからといって特にどうなるでもない。無意識に刻まれる伝言の他には何もない。どうということはない。それらのまたたきは抽象化された町の一部。君は現れて消える対象物を繰る冒険者になっている。止めどない想像群の奔流、はっきりした思考が観想を深めて行く。
 時計の数字は22時を過ぎている。君の体は新しい栄養素の摂取を要求している。蓄えられた限りの働きは消費され、次の力動は別の燃料を要求している。
 君はふと、小学生の頃好きだった少女について思い出す。ピアノが巧かった。あれから随分経つ今は何をしているのだろう。誰と知り合い何をしている。君に、少なくとも今の君にはそれを知る術はない。幾つかの記憶は想像力の構造に依存しなければならない。
 名も無きファミリー・レストランに入る。マニュアル対応の店員に気の抜けたハンバーグ・ランチを頼み、食前に運ばれて来たサラダをほうばる。私は隣り合わせて座った家族連れの低俗な会話に嫌悪感を催す。ポケットから取り出したウォークマン・スティックのイヤホンを耳に突っ込み、何も聞こえないふりをする。現実を生き抜く手法として。私は運ばれた出来合いの物を栄養価にだけ気をつけて口に運ぶ。誰も知らない外国の機械化された農場から旅して参った貴重な豚の、あられようもない姿に目をつぶる。食べることは生き抜くこと。
 店を出ると時間は23時を回っていた。君はまたこの荒野を歩き続けて行くだろう。どんな理由もない生活の物語を。