2022年3月18日

文明というだましの否定、あるいは現実的世界観

我々は実に悲惨な世界に生きている。それというのも、自然は無慈悲で、人間は邪悪すぎるからだ。
 この世になんらかの希望をみいだしている人は、実際、彼ら自身がなんらかの幻想をもっているからそれを頼りにしているに違いない。もし彼らが現実を目の当たりにするほど透徹した知性をもっていれば、この世の残虐さに殆ど耐えられないのですぐにでも進んで世を去っている筈だ。

「解脱」でこの世から逃れようとしたインド哲学者らは、世界の本質を空しいとみて便宜的に、この世の酷さを耐えようとしていた。ところが現代の我々がこの種の「空」の観念で救われたと感じる為にも、一定の知性の低さが必要だ。たとえどれほど世界が空しいにせよ、我々が生きているあいだはその世界にのみこまれている、つまり世界に伴う様々な悲惨さから逃れえないと冷静に予想できてしまうからである。

 世界の悲惨さをなんとか積極的に解決しようと外部・非我に働きかけても、 無数の愚か者に囲まれ、結局さらに絶望するばかりだろう。こうして文明の向上に希望をみいだしていた進歩主義者の福沢諭吉や、似た様に、理想国を心にいだいていづれはそこに到達できると信じていたプラトンとカント、孔子の様な理想主義者、あるいはすでにその様な国にいるはずと信じ最高善(至善)に止どまろうとした会沢安やイエスの様な神国論者らは、だれも、現実のヒトというものが多少あれおそろしく愚劣で、他者の経験の集まりである歴史どころか自らの経験にすらろくに学ばず、まれに学んだとしても殆どよくもなっていかないばかりかもっと悪い事をしだす惨めな現実から、自分自身が希望をもつためわざと目を背けていたのである。
 大半の犯罪率が一般に少しずつ下がったり、集団の平均知能指数が一般に年々あがっていたとするフリン効果といわれる見解があったり――一般の知能指数は定義から同年齢との偏差値なので、時系列で比べる事自体が本来無意味な筈だし、もし無理に比べたとしても単なる特定の適応への教育による淘汰圧を間接的に説明するにすぎないだろう――さも希望を持たせようというしかけはたびたび希望信仰の為にもちだされるのだが、現実にはより良い資質の人からみて、人類の殆どすべて又は全員がより邪悪な事は万古不易の構造だし、単なる自然にかぎっては永久に我々の恐怖や痛みと無関係に、我々を含んで万物を流転させていくだけである。つまり何もせずとも、あるいは何をしても、よく生まれついてさえいれば、なにごとにも特に救われはしないのだ。

 こうして人間がこの世に希望をもつ事、又は満足感を得る事は、いわばただの愚か者の空想のたぐいだろう。冷静にものをみていれば、環境破壊が常道なうえに雑食で、傲慢に生態系の頂点にいながらこっぴどく同種で争いあうヒト全般が決してほめられた生物ではないと明らかだし、そのなかの良い部分だけに注目していたとしても、そんな部分は大抵が立派な作り事のなかにしかないのである。

 夏目漱石が『草枕』冒頭で書いた虚構論は、ひとが理想に遊ぶには芸術が必要と示唆している。そしてこのために人は望んで芸術家になるのだろう。この職業は、単なる商業主義でなく、もしそれを真剣にやってみれば、決して所得や現世利益にめぐまれるとはいいがたいのに、きわめて多くの人々がつぎつぎ志望する奇妙な特徴をもっている。そしてこの現象を的確に説明するには、漱石が作中で画家に述べさせた上記理由が大まかに役に立つだろう。
 我々は理想なしにはこの世に絶望するしかなくなってしまう。むしろ、心卑しく、根っからわるい、害他的気質をもった者にとって、この世は実に好適かもしれない。それは彼らが攻撃を加え、むさぼり、虐げる相手がしばしば彼らに反撃しないからで、つまり善人の親切にただ乗りして生きているからだ。こうして人の利己性が動物として全く否定できない状況が社会全般でつづく間、我々はそのヒト動物園を超えた聖なる世界として立派な技をつくり、特にそのなかで理想に遊ぶしか救われようがない。だがその種の慰めは束の間で、やがて虚構の幕が閉じ、我々は現実という凄まじい地獄に舞い戻ってくる。
 この地獄を直接作り変えたがる者は、政治という暴力の塊でなにごとかをなそうとするが、却ってもっとひどい目にあって信じがたく浅ましい大衆からの罵倒の渦に投げ込まれる。彼ら政治家がどれほど賢明でも、そればかりかどれほど慈悲深くとも、寧ろこころが優れていればいるほど、ますます人間の禍々しさに打ちひしがれ、ついには悪しき衆愚と寿命の前で敗れ去る。逆に彼らが根っからみみっちい小人物であれば、大体似た様な性格でしかありえない圧倒多数のひとびとに共感され、どこまでも偽りではあるものの随分長続きする名誉を得る。人類一般から最大の汚名を着せられている人物を冷静にみるがいい。その人物こそが、最美の公徳をもっているのは殆ど疑いがないだろう。人類はその余りのたちの悪さのため、博愛をのべつたえるつもりの聖人を進んで磔にした。冤罪を反省しないばかりか、暴虐でしかない、とりかえしのつかない加害行為の罪深さを裏返して「自分たち人類のための罪の贖い」といい、聖人抹殺を自己正当化してきた、行状不良生物の日ごろのおこないの悪さは、彼らの本性からして到底更生の見込みがないからには、未来永劫にわたってまず変わるまい。

 一部の政治家が理想的政体をつくりえても、それは虚構のなかでなければ、単なるうぬぼれた幻想にすぎないだろう。一般のひとびとはなんらかのすばらしく思いやり深い社会に適応できるほど、生まれつき性格がすぐれてはいない。彼らの日常はねたみや憎しみ、そしり、うらみ、それら根源的な負の感情を込めたありとあらゆる陰険な攻撃性で溢れている。わが日本国のソーシャルメディアはその様な蛮族どものうめき声で果てなく埋まっていない日がないのだ。
 亡びない文明が望めないよう、完璧な聖人らだけで国がつくれる日も決してこない。我々は利己性をはらむ本能をもっており、その様な脆い、自己破壊的な基盤なしに実現できる国も人間社会もありえないからだ。裏切り者たちはつぎつぎ革命、維新、改革などと称するさまざまな言い分をみいだし、無理にでも暴力をふるって、みなの上に自分ひとりのわがままを押し通そうとする。この様な権力行使現象は人にあっては多数派ですら平気でおこなって、遂には無意味におしつぶされ時に殺されさえする他者の痛みや苦しみの慟哭を無視して、見方によってはもっと野蛮な状態を「時代が変わった」「進歩させてやったのだ」と称する。だからこういえる。小さな箱庭の様な親密で操作可能な芸術をこえて、人類全体がふくまれる政治に携わる者は、必ずや罪を犯すだろう。そしてその罪深さに応じて、心ある者から嫌われて終わるだろう。
 政治というなりわいがこれほど矛盾したしごとであるのに、その志望者もまた絶えないのは、自分こそは欲深なあれらの反面教師ども(つまり大半の政治家ら)とは違い、正しい行いをなしえる、そしてそれに伴って、実は驚くほど性悪で暗愚な一般大衆には共に決して期待できない感謝の声望を得られるだろうというまぬけな自己過信と、甘い観測、総じて、命懸けの利害対立を無数に含む複雑すぎる社会とそれらを駆動する心どもの底知れぬ厄介さへの勉強不足からきた、純粋なうぬぼれによっている。そうでなく単なる慈悲の為ならば、彼らはもともと慈善活動家になっていた筈だからだ。
 おのれの銅像をつくらせる、自らを偉大と信じる政治家らがそれを別の権力者らに引き倒される光景を眺めるまで生きている事もあまりないだろうが、悉く、彼らの名誉の殿堂は新たな征服者に壊され、この世に残らないだろう。英君の肖像を残しその遺徳に浴したいと考える純朴な芸術家らは、彼らへ悪意をもつ別の権力者らがどれほどねたみ深く、自分が超えられない権威をいかに目の敵にし、それを根本から除去する為なんでもやるか、十分知らなかったのである。