2006年10月13日

点滴

夜闇が街を薄紫色に染める頃、人間に一個の女が歩いて行く。所は渋谷の駅前だ。誰彼ともなく押し寄せる人波に混じってミュールの響きは拡散する。横断歩道の白線がまじわる中心に丁度、差し掛かった頃だった。ある男が話しかけてくる。
「君、どこ行くの? ひまじゃない?」
 女は興味のなさそうな素振りをする。
「ああ、だめ。いま忙しい、忙しい」
長く伸ばして、ばらばらな宇宙の星屑の様輝かせた爪の先をきらきらと夕闇に散らせながら片手が、重力に逆らう。
「ありえない。ちょっと付き合って」
デニムのミニスカートを肌にすってでもちょっと駆け出す。女の耳元で揺れる白銀のピアスが心の図像を描く。
「何の為に男女は混じり合うのだ?」と、僕は言う。辺りには軽い沈黙が束の間の静止画をもたらす。すべての風景は止まる。
「昼夜を問わず発情し、虚ろな存在を求め合う。愚かなけだものども。恥も、罪も、生まれてきた理由すら知らない」
 渋谷の雑踏はまるで舞台袖にてストップが掛った瞬間みたいに真っ白だ。誰も彼もが脱け殻の魂になって空を截る。そして舞台はどんな活動もやめる。
「何を望んでいるの?」と、君は言う。
「いいじゃないか。放っておきなよ。これは大した例ではないにせよ、彼らには楽しみがある。いや万が一にでも、どんなに不義でもいいじゃない。許してあげなよ。貴方は人間ではないのに。彼らの気持ちがわかるの?」
「解らない」
 女の顔をまじまじと観る。固まった表情は、信号機の点滅を目標にしているみたいだ。マスカラの塗られた豊かな偽の睫が風に触れて溢れそうだ。
 話しかけてくる男のひとりは、あちこち穴の空いたぶかぶかのブラックデニムに、うわ半分は血のりの染料が滲んだ真っ白いTシャツを被っている。二の腕には奇妙な蛇柄の刺繍。足下には灰色にくすんだショート・ブーツ。眉毛に斜めの刈込み。体格は貧相でもなく、かと言って大層でもない。無国籍で無品性な無記名の人体、何の為にか生まれ育ち、こうして軟派で閑をもてあます東京の一員。
「かわいそうだよ」
「そうかもしれない」
「猿みたい」
この太陽系の第三惑星を浸す、水の滴りでよろこばしくも染み渡った生活様式群が奏でる曲はやるせなくものがなしい。
「時間は進んでく」
やがて熱ったアスファルトに鈍色の点滴が突然に為される。お天気雨は、裸のままで立ち尽くす幾多もの社会人達の全身をしっとりと濡らしていく。じめっとした空気が、無音のスクランブル交差点をあたかも撒き水をした後の如く支配する。スーツ姿の会社員のめがねは曇り、初老のおじいさんの禿頭は陽光に尚一層に照り返し、若い女のキャミソールからは透けた薄い桃色の乳首が覘く。
 まだ残暑の続く秋雨が上がったあとに彼らは、自分たちの姿を知るだろう。そして又、人なるものの下らなく、とるにたらないさがをも。