2006年10月14日

埠頭

深夜の海浜公園で語らう連れ合いが、東の空に大きな満月を眺める。穏やかな海面へ幾重にも反射して棚引く図画は、二人を本のわずかな間接光で照らし出している。
 初秋の夜風は潮の香りに混ざって新しい。埠頭に人影はなく、遠くで旅客船の鳴らす汽笛がちいさく響く。ふるびた街灯の、白銀の放射だけがぼんやりと辺りを染めている。その周りだけで死を急ぐ虫たちが騒ぐ。
 宇宙最小の音量で男の低い声が呟く。誰も答える者はない。世界を包む静かな波の音だけがちょっと今だけ、明晰な解答を提出する。女はやがて泣き出す。もうここへは戻って来れない。女は海を超えて旅に出る。だからこの夜は黙って、時間がゆっくり行き過ぎるのを待っている。
 しばらくの後。朝日が地表を浸す頃、昨夜約束が交わされた海岸のベンチには誰もいない。干潮の浜辺には数え切れない思い出の破片が辿り着いた。一羽の烏が虚しく遠吠えして、遥か向こうに青白くそびえ建つ幾棟もの高層ビルの方へ去る。街は何の説明もなく本日を始めるつもりなのだ。明日も、そのまた明日も。
 しかしやがて男は壮年になり、過去の落としていったその場所に再び立つ。隣には違う誰かの影がある。薄い藍色に暮れた夕闇の大空では天の川。すぅ、と息を吸い込むと、あの日とおなじ香りがする。
 満天の星屑がああ今でも囁きあう、多くの都心の部分に飲まれて、どこへともなく消えてしまったから。