2006年10月12日

人間原理論

無としての純真空状態へ数学的経過を通って揺らぎが起きる。それから我々の実存する宇宙は膨張を続けている、という事。だが人間はどうか。哲学の命題。多様化する形態の一種として生態系を構築する。
 そこでは生存という命の法則性、形態発生の有機性が固有であり、人類という方式において道徳律をも定義づけた。それは種内競合を最良に合理化しようとする命からの令。同時に、人間は周辺環境をも改良・人間化することで文明を築く。自然の侭の有り様を破壊して人工物の秩序を推進する、芸術とはこの極地の謂いに異ならない。
 我々はこうして宇宙の普遍的秩序の中に含まれた有機物の一現象。デカルトは特異な想像力によって精神を第一実在に置いた。だがこの命題には現象的なものへの考察が足りない。精神は物質から離れて存在するものではない。なぜなら人類の肉体が無いところには懐疑的精神もまた実存しない。肉体、更には頭脳の現象としてしか精神作用は説明できない。
 世界に存在するのは物体運動だけである。物質と現象の等価性(E=mc2)。精神や法則ですらこの範囲内で説明できる。例えば実践理性的な自律精神が人間の種内秩序を理想的に整える為の精神作用であることは哲学的であり、この精神作用は特有の脳内化学反応の組成にまで還元しうる。背理=とある精神病患者における倫理の崩壊。ところで法則は物体運動の規則。人は言うかもしれない。神にしか創れない圧倒的な理念の由をどう論ずる。だがideaは思念。つまり、科学的観想に類した精神作用による物体運動形式。それ自体は精神外部に存するものではない。ここに現代哲学における大きな転換がある。乃ち、科学法則は我々の思念がまさに数学を研究する時の様自ら秩序づけるものだ。私はここにあらゆる西洋哲学を揚棄する思想がある、と信じる。カントがコペルニクス的転回と云った、宇宙における主体性の転換と同等の悟りがある。
 宇宙は自体が無目的。なぜなら一度崩れ出した無の領域は、有形界へ向けて無秩序を徐々に拡大させるだけ。あたかも科学法則によって例えば水が100℃で沸騰するといった世界が、我々より絶対な何者かに秩序づけられている、という幻想は旧約聖書的構造に過ぎない。僅かながら我々の人間精神能力に限られた範囲で観察の及ぶ世界に理論法則が見いだせる理由は、ただ単に人間が他の可能性を理学考察的に排除して、あたかもその様に見ているからだ。月の水は100℃で沸騰しまい。なぜなら空気がなければ状態を変化させる媒介もない。宇宙はただ自己を展開させる世界。人間は人間的にしか宇宙の種類たりえない。