夜明け前、君はうすらぼけた満月の浮かぶベランダに出て、なんとなく夜の海を観ている。そこにはまるでかつて失われた全ての思い出が浮かんでいる様に感じられる。もう二度と手に入らないもの、既に消えてしまったもの、大切に胸の扉の奥に閉まっていたもの、色んなものがごちゃごちゃに頭を廻る。だけど君は知っている。君自身ですら既に、時の向こうに失われてしまったのだ。
ゆらゆらとさざめく波形に響いて水面は、神聖な光をかぐわせる小さな庭の様だ。君はその風景の中に融け込んで、もうみえなくなってしまう。海辺に建つ一軒のマンションから遠く、一台の車が夜闇を斬って駆けていく。
僕はその中から何処までも続いていく水平線を眺めていた。朝焼けがやがて地表を端っこから染めあげていく。地球は今日も回る。太陽はまだ、生きている。人類は世界に沢山暮らしていて、ここの裏側ではきっと夕闇が落ちて来た頃だ。
魚は海の底を游ぎ流れて暮らす。鳥は遥かに上空を巡り、大きなわななき声で良き朝を告げる。
街中ではもう始発電車が働き出した。まだ眠そうな車掌さんが駅舎の小さな窓から顔を出して、太陽の顔を見た。郊外の、調度いい一軒家が一杯並んでいる土地から、幾多もの自動車が出発する。お父さんが仕事に行くのだ。お母さんはそれを見送りついでにごみ出しに行き、近所の奥さん方とまたなんやらぺちゃくちゃ話をしてる。鮮やかに黄色い学童帽を一様に被った子どもたちがぱらぱら、まるで振り散らされた万華鏡として校門の方へ集まってくる。
先生は教壇に立って、言う。
「みなさん、お早うございます」
おはよーございます! と皆は言う。時計はそれを笑顔で聞いている。