2010年6月21日

現代経済学の前衛論陣

インターネットで論陣を張っている経済学の池田信夫氏は、国家資本主義の原理なき批判という過ちを看過ごしている。
つまり、国家資本が「私有された土地支配」の権利として国際で前置きされる文明場環境、いいかえれば各世界貨幣の銘柄を自らの保有した地代分の生産性で信用創造内で誇示する世界間取引の間にあっては、国家資本そのものの利点を無視できない。
もしこの意味が形而上学的に理解不能なら、池田氏はまず¥を用いる合理性を失えねばならない(どの国にあれ)。国家資本への依存史はその国際取引のレートを通じた商世界と少しでも関わる間は残像していく。
だから国家資本の銘柄を価格面で上昇させる試み、乃ち「信用取引の元締」志向はまったく功利で、国際的にも財貨の競争遷移にのぞましいといわれる。

 国家資本主義の批判に根拠どころか、理由がない。おそらくその用語を、氏は単なる全体主義か社会主義の末節学理と取り違えているのだ。が多少なりとも分析哲学の造詣を用いれば、『用語の定義』が各科学を含む現代哲学の基礎なのは公理系の可逆律(最小最大則、つまり演繹体系)から理解できる。
国家資本主義をもし字面で通る単純な「国有財産の公的運営の理念」だとすれば、民主政が営まれるどの政府でもこの理念なくして財投政策を舵取ることは寸分できない。もしそうでなくば計画的投機ができないかする必要性を失い、目先の利潤、乃ち私企業と同じ再構築にしか経営の合理性を求めえない。そこでは福祉は成り立てないし、福利厚生もありえない。

より常識級の言葉に訴えれば、「国営銀行なくして如何なる信用取引もなし」。この意味をとれれば、国家資本主義批判は錯誤か用語の取り違えのみならず、今日の市場原理下では偽善也と覚れる;さとれる。
過剰流動性はこの種の超個人資本主義から生じ、景気や共通貨幣を通じた財産の還流にとっては害ですらある、と金利生活費による浮利の銀行負担のいいかえで説明可。
それらの数字だけで蓄えられ弄ばれる財産は、資本主義の本質(余分な資本の使用効率か限界効用。つまり株式市場の出発点であり最終目的)からいえばない方がよい。これが修正派の決定的批判だったことを思い起こせば済む。