2010年6月4日

生態理論

人類が自らの生存を保障してくれる共同体との協調をのぞむのは、孤立した生態ではえがたい分業の功利をえるため。趣味観は彼らの属した共同体規則や条件に映る。もし違う生態規則が複数林立できれば、それらの生態経済が十分故。趣味主義的最高幸福観は、この点で客観原理に補足を要するだろう。各主観は自由権を彼らの理でもつ。が主観やあるじの在りかでそれらの異なる様に応えた幾つもの理同士は、結晶できる協調や互譲の段階を趣味観に於ける相互関係として保つだろう。いわば最高段階は弁証法の内部組成としてそれらの主らへ一定の秩序を生態界でのやりとりに含ませている。そして一つの最高段階という理想は、結局どの生態も個性を全体な宇宙内で伸ばす他ないから必ず協調か捕食であれ、相互関係を伴うものとなる。人類が天敵なき時代に思い描いた神から与えられた支配な地位という考え方は、最高幸福への宇宙との関係をより客観視すれば欺瞞を幾らか含むか少なくとも思い込みが入っている。神からの言葉、という知覚基盤にとっての想定は、神概念か神という思想の伝わらない世界で有効とならない。機械生命へ神のない世界を構想するのは容易な様に、全知全能は主観と趣味との当為理念に対する開きなだけ。人類はこれらの変容可塑さが、ある時代に到来しても驚くべきでない。国連が銀河系の枠組みをこえても、猶同じく互譲の習性が生態地位内での必然な位置づけとして残されるか、残されざるをえないのを我々は予想できる。法則型知性は比例関係の詳細な分析を通しても、社会をこえてその応用範囲をみいだせないのが証。つまりデカルトの二元論での仮定を退けて神の孤立を想定しても、それは理念にすぎない。この神概念を我々は古代宗教と共通の抽象神か黙想神となづけられる。対して、顕れうる域での神らしさは、具体神かより日用できる語彙で精神とよべる。精神は具体化した神性の部分形と定義でき、その人類が理想する全能さとの隔たりは時間内で担える創造能力に依存している。現実に、機械生命の緻密化の先々では、再創造の程度で我々と略類比できる生態は可逆化できる。つまり理念な抽象神は人類が知覚基盤をその能力の想像できる最大級へあてる限りで出現か空想される一つの言語概念か語彙。だから、我々の先祖や異文明が想う程度の神性は宇宙のどこかでは実現していて、接触やその直知は生態秩序の延長可能さか末永さと望みによっている。最高知能と宇宙創造以上の能力をになう抽象神は、それらの具体的能力に関する限り具体神に過ぎないし、我々のどこかの子孫がこの段階の精神性を経過しないとは到底断言できない。後生畏るべし。
 よって、共同体相互に似た唯一神を立てていても、それらの抽象神らしさが異なる可能性ある限り我々の趣味一般もやはり互譲以上の理由をその弁証法以降の展開へ要するだろう。唯一という概念は、共同体間の背景な知識か教養の程や質量を担わせそれらを比べさせるに十分でない。乃ち抽象神性は全て主観原理の枠内で納まる。客観原理的抽象神性は、これに対して知覚基盤の経済をこえてやりとりされえない。現代、人は経済利潤への動機をこえて協調したがらないのでこの協調度はその侭 共有したがる経済圏と合う。つまり教養背景の折衝が同じ芸術形式の元で可能な域しか、抽象神性が語彙に於ける超越概念の交遊として起こり得る訳はない。