2010年6月23日

現代政治学

社会主義と資本主義の間にある考え差は、前が「最大多数」の幸福を前置きにするのに後は最高幸福しか特に問題にしていない所。私個人は後しか信じないし、前は経済思想でなく、政治思想でしかもそれは消極的に貧者を恵む効き目のみ。

社会主義は政治思想で経済思想でない、と考え直すのは功利主義哲学が量的それを抜け出す途端に可。歴史でJ.Sミルの登場が決定づけた。社会主義は功利限界を、量的にしか批判できない。

 多数者を救う事は決して経済目的でない。経済活動は団りの人数へ財を分けうるがそれをこえた場面で万能でない。だが、経済活動が圏域での相利共生化の形ならこの姿は最大多数を唯一の目当てとはしえない。
 動物功利主義はいずれ細胞功利主義や有機功利主義に還されるが、それらの過ちは使用単位を主観原則にとり適切に設けなかった前提な公理系ですでに兆している。
競争か消費秩序の体験がとりこみ強さに刻まれて生態系を築いた型ですべてそれら細分化功利説は立証不可能。この考えに基づき直せば、縁起説からきた慈悲の旨もある限度を伴ってこそ善意と目されるだろう。

社会主義批判の主要な的は、最大多数の救済か保護という論旨がすでにして偽善と示せるかにかかっている。
動物な利己さは合慈悲さか慈しみの程が経済圏域の確保にすぎないと消費行動の範囲から教えている。(でないと、宇宙の塵への慈悲と福祉は隣の八百屋へ向かうより功利で、又相対的普遍性に近いことになり矛盾。)つまり動物な利己さは集団行動の限度に群れを目指したが、この行動範囲にかなう時だけ慈悲を合理とした。
だから無目的か無制限の愛や慈しみ、即ちagapeとよばれる神性は決して個々の生態に必須や必然、必定とされない。害虫への慈悲は犯罪者の子孫への注意深さと同じ起りをもつ。それらの現れは嫌悪感か不快であり生態的には忌避行動に至るし、我々は個別と大量の絶滅を通じてすら同様の功利規則を採用するを得る。

 政治屋まで資本経済の万能風を信奉するつよい利己道徳の危うさが社会主義を報ずる者に普き非難の的だが、問題は経済圏に依存せず生計できる理由なき限り、資本主義そのものがなせる奉仕の領分を決して排除しきれない事。乃ち「調整の程」以外に何の議題も、経済政策にはありえない。
この程が高いとき資本主義経済は混合的となり、低いとき放任的となる。くみこみ振り子機能が財政内でたしかな場面で、これらの選びは僅差のみ。故社会主義そのものは経済政策面ではなりたたない。つまり公共議題とすべき案件は単に調整財の投機先で、その将来への複利耐久さ。

この考えは『財投議会政』となづけられ、全て現今の地表で営まれる資本経済下での政治体制の理由はそこ丈。財投議決の監視と参画が民主主義政治とよばれる考えの原点で終点。