2010年6月12日

現代経済学

資本主義の問題は、誰の為に営まれる社会か、という点で一つの完成をみる。最も中産的な者が恵まれる社会は内的増加か再生産率に己を特徴づけたい、外交上の訳をもつ。資本経営の最適さは中産層との量的適合にあるので、之は増産できる品物が消費されたがる市場の趣味か嗜好とかなっている時のみ当たる。
中産資本主義は人口増の謀な丈。つまりそこで増大したがる層は、確かな生存率の低さを世帯量で補いたい。我々が彼らに同情する限りで自治体は中産資本の優遇を旨とする方策へ阿るだろう。
 私見では、「知識資本主義」は他の体系よりも資本原理主義の中核を占めるに最もふさわしい。もしこの他に構想されるいくつもの体系を採用しても、いずれは知識資本の故に放擲される。勝利を収めるということが生き残りの為の目安なら、前衛か先駆けを心掛ける進歩的思想家は必ずこの領分付近を用いるしかない筈。

例えば宗教資本を国建ての基にした集団は、常に改めて作り直す体系に弱い。比べて、知識資本での新興の試みはたやすい。この違いは資本原理の核を、いいかえれば他より優先すべき財産をどこに求めるか、少なくとも進歩人らの内で重視するかによる。

 知識資本の欠陥は、おそらくその偏差からきた後発の不平等化にありそう。例えばIT読書の知識が遅れた集団を、時期に応じて事実上不遇にする有様は想定可。
要は学習の民度が偏りを設ける限り必ず後天的不平は広がりゆく。だから怠惰を自由化したい世界観や場所では、決してこの種類の資本思想は浸透できないか、うまくゆかない。
もし知識資本の功利が現実的なら、その場は勤労の意欲が偏差を前提として示され易い環境条件にある筈。だが、この体系が行う実践は、おそらく他の全社会体系でのものより文明の旨を推進させる力では偉大。