2010年6月30日

競技賭博の部分的解放論

私見では倭人は平安時代以来の近畿由来で過度の好色文化の傾向をひきずっており、よって賭博による射幸心は程度次第でそれよりはましな知的営みへ還元されえる。例えばイギリス由来の競馬はそれが適宜な勝機を得る為には配偶から遺伝の知識まで高い知性を前提にする点で公認されても害の最も少ない娯楽の系統。
同じく、もと競技へは高い身体能力を活躍の前触れとするからそれを様々な分析手法から予測する才覚は、他の不健全を煽る一切の接客業より遥かにかしこく功利。つまり「競技賭博の程度や種類による公認」は、半面で倭人種しかそれを好みえないほどまがまがしく毒々しい接客産業の徹底撲滅とひきかえに正義。

結局この競技賭博は選手らの身体能力が地球上かその外の全てのそれに互角以上へ向上するまでは否定される筋合いがない。逆に、常に不健全と末路の酷い病気の温床な接客業種はどれも存在意義がまったく認められない。
芸者・舞妓による座敷でのおあそびとよばれる異様な接客など京都に土着したこの種の倭人風産業も、きわめて特殊な状況で披露させる古代広告か伝統芸能の奇怪さでしか少しも貴びえないし、保護された府政の域以外では一切撲滅される方が望ましい。