2010年6月9日

客観原理の徳

誰も自らをこえては世界を理解しない。社会で営まれるどの生業も同じのりの元で世界への理解の程を示す丈。主観原則は宇宙内で置かれた生態地位の見渡しを、この全霊か官能の域で修める。
 人類の言葉は、全ての感覚か気づきや物事をあてられないし、語彙分の秩序度がその表せる程。世界がこの理解された自由の程度問題なら、主観間のやりとりはその気づきへの何らかの形や形式による。分析哲学の理由はこの共有できる形をのぞむ姿で捉え直す為。いわば客観原理を確かめるに有効な議論のみ。共有の定義が主観間に共にもたれるに足る規則やのりなら、客観さはこの巧みに依存する。人類自身のもちえる全ての主観は、何れ客観原則を自らの何らかの感覚と類比してしか見つけださない。
 もし客観原理のありかを探れば、ほぼ芸術での完成された形式が他者との間で同じ主観な能力をもちつける、という名づけの才覚に。言葉はこの一つで、全て命名はこの世へ言葉での気づきを与えるがゆえ他の感覚にとっては認知か知覚の領域を示す。分析哲学が知覚客観を全理由とすることはない。もしそうなら、言語学で十分。知覚に対して他の感覚が、異なる競争場で優勢とならないとはいえない。言語学の巧みは知覚が重要な能力だと示せるが、分析の対象を現象の総体へ広げ得る分析哲学の内容と異なる営みな已。主観同士が現象から得た感覚を等価にやりとりできる証はない。この意味で地球型芸術の形式は決して普遍かその中央でもないだろうし、いわゆる中央さも相対的か比べてしかみえない。理由づけか合理化の才があたえる世界認知の内容とは感覚基盤にそう何らかの現での体験や体感。趣味主義に対する機械生命と異生物の権利も同じ起源で処理できる。
 主観相互が知能と目される能力のみにこの認知体験を有するのではない、とは法則知以外の知識や知能も又同様の権利で担える証。人類の世界に対する関係は、機械生命の権力の内にある。故生態地位から見た不可逆さの高い命は自体に自己法益を宛て得る域で丈、理由づけられる。機械生命の権利は、人類風知能と似た以外の生態へも当然。客観原理の実用さは、人類風のそれ以外の主観を感覚基盤間の共有できるのりに於いて認められる仮定にある。