2010年6月19日

功利主義と趣味

質的幸福の定義は、知能原理を精神性の快さへあてている点で地球型偏見をせおう。この偏見は、幸福感が類的にきめられた質へ還元される面で絶対化できない一つの空想か仮説。幸福の質は、その功利哲学内では趣味とよばれているが、類的普遍さが定義されない間どの趣味も基盤から違う。量的幸福そのものは有名なベンサムの計測法でかなり細かくいわれる。所が質は異なる。かのミルの命題「満足した豚より不満なソクラテスがよい」は象徴のいいかたな丈で具体的な行為規準をいくらも示していない。たとえだが、ソクラテスという言葉で示された対象が不満ながら豚以下の罪深い行いをしても当人の錯乱でしかない。こういう詳細にわたってミルの定義しようとした質的功利の原則には不足や不十分が大いにある。中庸的功利性の謂いな趣味の定義にしても、属した大多数の社会集団が豚のごとくなら、啓蒙への向き自体が随分ちがっている。
 私の現時点での考えでは、より良い趣味は、アリストテレスによって理性がそう定義された如く人類としての特徴をさらに進化させゆく方面への啓蒙について言える。そして知能行動とみられる全ての高度な建築的誇示は理性的動物に至って複雑なので(カント判断力批判で索巣性か索居性といわれた非社交的本質はこの総合の為に邪険な故、人間性の本性とは思えないか、定義しづらい)、我々が祖先種から引いた目的も、文明内で実現すべき高度な心理戦がより壮麗な建築界を形作る所にみつかる筈。理性を宇宙と数学的秩序の共有した建築規律とみたてた古代ギリシアの賢者は、神という用語に煩雑な意味しかあてえなかったとはいえ、現代以降の精神が世界適応を図ろうとする上で必須の創造者の模擬を仕立てていた。最高の知能、但し使用者思想面でみれば全能ともなり得るそれはいうまでもなく、最高度の建築家に違いない。我々が想像できる宇宙の平原も、この創作家の見立ての内では適応可能な地域となる。理性が各種の知識の総合の謂いなら、趣味の定義も理性の良さをさらに高めようとする人間性の定義に還る。
 具体的建設にあってその際に示される演劇の趣向も含む理性の良さは、実際には縁起体としての全生態および無機環境の各個性を本質で捉え、それらの十全以上の調和度を達させようとする指導力に至る。この指導へは計画の高度化に入る程益々難しい複雑な能力を要求される訳だが、人類が文明社会を用いて行おうとしている正にそれこそ高度な社交界の円滑な組織なのだ。
 複合性についての選り好みは、経済圏に於ける理性を人類内での競争的遷移へ現に宛てている。故功利主義の理想がめざす的も又、地球型生態の法則知な個性を活かした合目的な建築。そして国家はこの為の最小単位で、一般に文明圏は国家相互の関係に云える。地域文明圏のみならず、競争力を含めた如何なる自由にあっても、個々の理性は主観原則に叶う宇宙間での建築業態を見る。且つ我々地球型理性の本質が当然、消費順位制を含む様々な個性間の協調にかけてこれらの指導を図ろうとするのは自然か必然で、というのも日々彼らは種々雑多な趣味のよしあしに囲まれているからだが、質的幸福も又、彼らをとりまく時空間での感覚基盤を選び抜く精神性に関する限り彼らの知能行動のよさとその伝承にあたる。