2010年6月30日

哲学言語界の訳

科学とは哲学の僕。全ての実証できる学識は、それが対比される固有の母公理系でしか認知も利用もできない。しかも正しい唯一の哲学は、場所学識を除いてはない。つまり全て普遍哲学のありえなさは知覚基盤差の認識量に還る。感覚を通じてしか世界の分析をなしえない以上、どの科学識も自然への独自の注解を免れない。合認識さは的確な知覚基盤への理由づけを除いてありえず、それはやはり場所学識へ、生態適応内での形質に戻る。
 これらの理解は、集団の合理性以外に全哲学は出ないと知らす。場所適応は望ましい知恵を選び抜くし、それは同じく実証知識から得た総合的可きの問いへ還る。この可きの問いは、社会科学という現状分析からは現れない。理性的動物は自らの理由をつくりだせる点でのみ、その場の自然からの目的でありえる訳。しかし、この目的は理由づけか合理化をこえず、理性自身の認識深さ、いわゆる理解と呼ばれる能力へ還る。世界の理解が実質での趣味の高さで、ここへ適宜な技術が介在できる際に理解は判断へ当たる。理解の度合いしか人知が現世で達せる理由や訳もない。だからアリストテレスの幸福観が理性的動物としての観想の旨へ土着していたのも、やはり自己正当化の為に複数の観点から言い分ける能力を知識頒布の前置きにした賢明さが見つかる。つまり哲学とは、歴史か出自的には最大多数の啓蒙の方便で、それは場所毎に趣をとる。もしきわめて少ない数理手法しかもたない集団へは概括論しか行いえないが、同様に逆の集団へは事実上の比例を述べれば済む。
 複数の主観間に良い秩序がある場所では確かに優れた哲学が見つかる筈。差延する誤解の埋め方は冗長さと呼ばれており、この領域で用いられる言葉こそ哲学言語。現実には哲学言語のととのえこそその冗長さが科学知識に比べてふるまえる適宜さ。