2010年6月12日

道徳定義の改訂

道徳体系はみな不可逆かつ特殊。普遍道徳は、カント哲学の批判となるが、ありえないだろう。実践理性はいうまでもなく、純粋理性も知覚基盤が属した法則条件に大幅による。反復か廻りの理念をもつ必要ない生態が想定できれば当然、十進法も無用か煩雑で或いは幾何学も解析的には成り立たなくなる。いわば純粋理性的経験が属する知覚基盤の下での法則を有するか持たせたがるのは、民族の教養度にすらその感覚への規制に違いとして示されている通り。宗教の原典が読まれえない地域にないのに、人々は場所からの規定の方を、普遍法の理念より優先して目の前の生活を営む。結論をいえば、カント哲学の理想はのちにシェリングを通しヘーゲルへ引き継がれた当為に於いて誤りだった。理性の種類は質的に異なり、各生態間で必ずしも共有して行けない。この認識は、普遍国家が不能で抑々そもそも自律国家同士は経済圏の要求に応じてしか協調しきれない、という場所毎の自治了見の意義を照らす。地霊がその場でふさわしい形質への見守りなら、場所らしさが呼び出す姿はどの時点にあっても特有のらしさをまとう。
 之らを鑑み、人類での実践理性と純粋理性の違いとして定式化された理知の区別は猶特殊経験的。それらの差は、特に功利系が道徳性と区別された際に生じたらしい。カントがギリシア思想の名残を引いていたのは、学んだ対象がアリストテレス等、もとから幸福主義を理性の形而上学へ求めた学派からだった故。いわばアリストテレス学派自体、ギリシア市政で疎外されつつあった自由市民らに好まれた思想家が自らの道徳を一般科学以上の体系へ仕立てようとした痕跡としてのみ見つけられる。
 この道徳という用語の対象物は明らかでない。およそ教養からの必然な認識の確率、程にしか道徳定義は見つけ辛い。道徳は群生規則の方法論なので、この母公理系は殆ど対象集団が社会内で得た世界認知の形によりがち。道徳法則の個別さは群生の風紀。この風紀に必ずしも同じ命題を宛てえないのは、群生相互が適応すべき環境かそこへの移住を事とする迄拭えないし、かくあればこそ多様さが生態系内での調和度の増大には見つかる。
 一般に、社会的ダーウィニズムが弱肉強食をうけがってきた訳はそれが思想家の適所にとって望ましい適応行動の規律だったから。より具体的には産業革命以後の近代イギリスでより迅速にほぼ同位な他の西欧諸国を出し抜く必要がここで求まるべき共有化された群生規則を、プロテスタンティズムか清教徒のもつ職業召命感かcallingで説明できる。宗教的選民思想が大量の工員を要する特有の産業体制と結び付いてこそ、植民侵略の正当化が起きた。
 この理解は凡そ近代の倫理意識そのものが一義的か一意なもので、普遍さや永久の真理と必ずしも一致しないと教える。とすれば、アメリカ合衆国の自由もこの社会的ダーウィニズムの延長上に建てられた思想の仮設建設物なのが分かる。
 単なる倫理否定な相対道徳観でなく、場所道徳観が建てられるを得る。この道徳観は相対道徳観も含みつつ、隣接以上で関わらざるをえない領域同士を経済圏の調和できる範囲で協調させる。