女性が目先の損得に従い易いという指摘は、もしそれが真だと実証される余地があれば、過去の人類の生殖行動時にこの発情へのつよい淘汰が係ってきた事によりそう。情緒か感情への女らしさとの文化素面での連環も、同じ起源をもつ様に見える。女性がもし他の文化圏より理知的な場所があれば通常の再生産誘因への逆淘汰、つまり環境要素の為の社会淘汰が起こったと見立てえる。
全て人類界へも一般の生物界と似た起源が十分あたると仮定して、性染色体 含むどの人類も雌をその主体とする。雄性はこの変異巾に対する場所で効き目ある何らかの競争力についての特徴を強調させた個体な丈。よって人類が女性からの受け入れか選択を、社会場からの習性の変形が文化面で起きていなくば通常か自然としていたのは略疑いない。幾つかの宗教がこの自然体験への規制を理性からはかったのは、自体で社会適応の策だった。人類の強壮さ一般は女性に顕れる、と考えるのが合理。もしここに弱体化や、適応力の減退という意味での奇形(但し、特定の環境下の支配的習性下という仮説か主観な条件つきで)への前兆が示されていれば、それは特徴からの魅了の不足や種内競争の必然により自ずとへっていく余り有効でない変異への淘汰率が高く見積もれる男性間のそれより致命的だろう。
乃ち女性が感情からの、或いは損得からの自身の性選択の種内傾向を免れないこと自体は自然で、過去の人類が増産か多産を至上命題とし繁栄をはかった証らしい。集団防衛と大規模な耕作圏の確保には国を要する段階へ我々の祖先の文化が進んだ時、幾つかの宗教で民衆へ伝えられてきた様に逆性選択の誘因、つまり男性からの計画された婚姻がより有利な事情が現れた。特に私有財産がこの決定的条件づけだった筈。結果、文化面でみて男性は、主に多妻か一妻の間で別系統の生殖秩序をはかり、そしてそれは私有財産の分量にかつては略依存してきたのだが、以前の社交段階でよりも国の中で様々な遺伝種を生存させられる様にした。階級や名誉の制度(栄典や授賞)がこの特殊な専門種への褒章として、自然な生殖体系では生存しづらい多くの遺伝子を社会淘汰的に保存したがるのは例。仮に自然状態として無限に同じ条件のつづく再生産適所な大陸を目の前へ置こう。人類をかつて数万年の間でえられた遺伝構成の侭この場へ数百人放置してみれば、必ずや内的増加率の生存戦略として、女性からの損得を目印にした生殖体制が主眼に築かれ、同じ適所が無限につづく限りこの再生産体験は彼女ら自身の感ずる幸福としての生産欲求の為だけに際限なく連なるだろう。我々はこれを通常の社会状態でも微視的に、各女性の成長の初期にいわゆる過去の世代がへてきた系統発生の由来らしさとして普く観察できる。野生環境で望ましい能力がそこでは盛んに賞美され、発情の有様は獣類とかわることなく同類内で騒がれる。羞恥心が存在する様になってその自然状態へ規制をかけるのは彼女らの成人が近づいてのち。
これらの論証は、人類が社会環境を自然の用意した適所への文化適応の様として形作り、その場での再生産率指向への何らかの規制をおもに男性の才能の為にはかることで、我々の知る文明圏を創造してきたと理解させる。私は宗教の為にこの理解が不自由ではない、と考えるし、実際 人類の思想の範囲内での自己尊厳は逆性選択の為にさえ侵されえないだろう。
結局、社会環境が逆性選択の条件。そして雄間競争の人類版は文化的競技をその主要舞台とし、技術・勤労・公益・栄誉等のそこでの獲得要素はみな形質の誇示一般と類比できる。富へしばしみつかる侮蔑といった文化内での面白い考え(なぜならそれは生殖の為の自己利益の自然ではありえない)はこの為に、即ち同類への中長期に渉る関係として、その貢献や自制心の競争的淘汰が起こりえるのを雄間または男性間協調性の故に、特定の文明社会場でのみ証明している。希少価値な共通貨幣かそれに類した欲望の的は、富の誇示の決定力だから、多くの文明界でさえそれは他に特徴のない中産層から熱望されるだろう。そして自然状態で想定される通りに彼らの一握りはそれを手に入れ、通常の古代生態と同様に順性選択な強壮でまさる女性を惹きつける。しかし全ての条件は永久の固まった生態地位を約束してこなかったので、彼らがその場へ最適化したがる限りで我々は古代人種やそれに類した孤立した末裔が、既存の主要な文明圏とは隔絶した地域で場合によってこういう野生状態、即ち自由恋愛と現行でよばれる順性選択の経験を保つのを見るかもしれない。
婚姻制度への儀式化の程度は、彼らの逆性選択の完成された習性を順繰りに女性そのものの成長過程へ編入させていくので、地球の主要で広い文明圏からのちの世代では発情というかつてみられた本能をごく短い期間、おそらく最も身近な男性か家族の一員への愛顧か思慕として維持するだけだろう。