清貧な人は富貴な人より幸福である。清貧は軽い負担で大きな福徳をえるが、富貴は重い負担で小さな福徳しかえられないから。金持ちや高位の人が行う善行は、当然の義務とみなされるか偽善と思われるのが落ちだが、貧者の一灯は感謝されるか賞賛に値する有り難いふるまいとみなす他ない。
なるほどこの使い古された言い回しで資本主義下の商人らは少しも反省しないだろう。だが脱資本主義に多少なりとも理解のある人々は、当然の事と思うべきである。大分県から出てきた福沢諭吉の様な成金主義者は清貧を非難し、下賎な侵略による蛮行を自己正当化した。配分的正義の観点から、雑な商人は清貧の人を当然の分け前をとらない奇異とみなすかもしれないが、実際は、清貧の人が行う奉仕的利他行動のみが最もよく配分された社会をつくる。搾取度の低い経済行動こそが最も功利的、使用者思想的、つまり他者にとって合理的で、最大多数の最高幸福、公益と合致するのだから。いいかえれば清貧主義者でありながら現に利他を頂極し、金利に還元されない実際のくらしについて最も余裕のある人こそが真実、経済合理的な人だ。
仮に清貧の人による寄進を額面の見かけの少なさではかろうとする者は、最も功利的な人を失うのだから、当然ながら経済不合理である。また富貴の人による寄付のみかけの多さによって額の少ない場合より何らかの優遇をした場合、この受益者は、貢献者の社会的福利の度合いをみあやまっている限り、経済不合理である。これら成金主義者にありがちなどちらの場合も、つまり非功利的か額面迎合的な場合のどちらについても、清貧主義者らの社会福利に劣っている。貢献度は搾取度に反するもので、配分に際しても同様だから、最も寄付的な商が最も経済合理的だ。いわゆるフリーミアム、無償の手数料、無償料は搾取度の高い生業が付加価値生産に有害といっていたのにほかならなかった。そしてこの理論は清貧の経済合理性の理論、清貧合理論、清貧論の部分集合にすぎない。
利益率の低い生業をきりすてる事が競争優位をもたらすとした観点は、清貧の功利をわかっておらず、寧ろ受益者の側からみてこの分野こそが最も好適なのだから、逆に利益率の高い部分についての再考が経営者側、貢献者側に要ることになる。いわば隙間で、需要が低く、利益をあげない様な負け犬分野が最も、清貧論の観点では経済合理的である。最も青い海は負け犬分野にあり、最も赤い海は花形分野にある。しかも常に青い海に泳いでいる、負け犬分野に適応している貢献者ならびに無償料受益者こそが、真実、幸福であり目的の企業である。
誤解をうけやすいかもしれないが、上述の点は配分的正義についてあてはまることで、決して調整的正義に関する議論ではない。なぜなら調整は政治によって行われ、そもそも経済合理性を目的にしていない点で、単なる商いとは真逆の公益をめざすものだからだ。経済学や経営学におけるコペルニクス的転回としての清貧の商い、つまり寄付経済の基本原理は顧客第一主義からみた無償料の経済を含み、利益率の低い分野に貢献度としての経済合理性をみいだすような、経営主にとっての新たな経済学、経営学上の観点で、いわゆる軍事や警察、徴税による巨視的調整、利益再配分の論旨を含まない。