2016年12月12日

手記

 今ある人のこの世には五感しかない。人が受け取っている世界は五感の中にしかない。五蘊(色受想行識、物質・感覚・概念・情動・知識)は、視聴味嗅触の五感より曖昧で幻覚的分類でしかなかった。知覚といったものはない。人は五感を協働させて何かを知った様な気になっているだけだから、五感が滅した状態では脳が外部と接触できなくなる。脳は言語を視聴覚を通じてしか理解しない。文字か音声による入出力が言語であり、そのため五感の一部でしかない。
 五蘊盛苦(pancupadanakkhandhadukkha、5つの・執着する・要素の・不快)が五感について同じ考え方としていえる。ゴータマ説では五感に執着する事が苦界、となる。他方、人類は五感へ巡る適度な刺激、又は健康を促す適度な運動を快楽と感じる。五感を抜苦与楽の感応へ向けて適度に運動させる事が芸術、技のしている事だ。それらの各感覚が中庸な楽しみを覚える様に繕われるという事は、執着でない限り、仏道と一致する。芸術家が五蘊盛苦を生み出しているわけではない。単に極端な刺激についてのみ、苦界の原因なのだ。もし欲として感覚刺激が悪というなら、視聴覚を使った脳内での言語作用としての有余涅槃も不可能となる。現世で涅槃に、安らぎに近づく為には感覚刺激を中庸に保つ様な環境条件が必要という事になる。『草枕』冒頭の芸術家が楽土を作るという了見は、俗界を捨象し浄土あるいは天国の様に表す、という主観的美化を、理想、又は涅槃イデアの擬似視聴覚的な表現として正当化している。感覚刺激がありながらそこに涅槃を連想させる何らかの装飾を施す事が、ここでいわれている芸術。そもそも生が快を生殖、繁殖、増殖の誘導因として使っているとすれば、有余涅槃への導引は快を中程度に整える事、一部を絶えず変転させておきながら飽きない様に全体を作り変える事といえる。
 自分に害がない悪行はしてもいいのだ、と考える西国人は、自分に害が来る時期や他者からの返報を予期していない。自分に害があるかどうかを長期的に予言しているのが、他者が害に陥る事を避けさせようという道徳だ。徳は利他性の変形。
 仏法僧は単なる詩人である。僧侶の一切は詩人でしかない。彼らは芸術家の一種という事になる。彼らは言語や演技、所作によって人々にある感情、特に慰めの感情、主に視聴覚を通じた涅槃感、仮の安らぎ感をもたらす職業でしかないからだ。彼らはゴータマ以来、大道芸人が諸芸によって投げ銭を得るのと同然に事実上の対価、その意味では商い又は乞食を正当化した。ゴータマは『スッタニパータ』(一章の四)で、自らの詩にある程度の自信をもっていたので、農民であるバラモンから嗟来の食を受ける事に反発し、反論もした。托鉢はインドにおける生活保護に該当したのだろう。
 人類は自らの才能が人類に最も貢献する分野に留まるよう工夫する事で、単にその人の意識において自己実現を果たすのみならず、その人にとって最良の経済的な恵まれ方をもする筈だった。清貧な職業は確かにある。商業的に成功した画家達の趣味の卑俗さは、必ずしも彼らが質的に幸福という意味ではない。前衛的な貧乏画家達は、ある種の伝統芸能や陶芸職人の様に清貧を宿命づけられているが、これらの人々は主観的な表現物によって慰められている。
 経済的価値を主要な人生観としてもっている人々は、より富裕な人々や地域をねたむ。この意味で永久に不満で、その分、不幸なままである。極めて低い確率を除いて人類で最も富裕な人になる能力を持つこの種の不運な人々はほぼ皆無なので、彼らは永遠に不幸である。