2016年12月7日

人格と脳

世の聖者はその時代において最も利他的な行動を物とした人だ。大脳新皮質は小脳を抑制し、本能を理性で抑え込む。だから大脳の発達が優れているほどその人は利他的に行動する。本能は利己でできており、理性と呼ばれる大脳の働きはこの利己を卑しいとみて否定する。だから利己主義者は蔑まれ賎しまれているし、もし利己的な人、例えば金儲けを成就したとか天皇の后になったとか夢を叶えたとかいう人を尊敬する者がいても、それは愚かなのである。この世では利他的な特性を最大に伸ばした人、いわゆる人格者が最上の尊敬に値するのだろう。但し、中庸は人徳を実践的に成就する方法だから、単なる普通人であるとか凡人であるとかは人格者ではない。お人よしも性悪も極端だとはいえ凡人も目的の人格ではない。聖なる者は利他を完成させた善心でありつつ、その行動上の実践にあたっては中道を外れるなと説いた。この様な脳の働きは、大脳と小脳の相互作用によっている。
 人格者とか聖者と呼ばれる人々の脳は、利他という意味で集束的だが、その他の部分では個性をもっている。もし東西の聖者の代表としてゴータマ・シッダールタと、イエスを選出すると、彼らは利他という意味で共通性があったが、理想を説明する際に用いた文言はそれぞれ異なっていた。もし彼らが同時代に同地域におり、互いに話し合ったら議論の末に、共通の説明手段を見つけ出したかもしれない。だから説明とか個性という面は、実際のところ人徳の目的ではない。この意味で、芸術は人格を高める道程でしかありえないだろう。
 幸福は、良心の満足という大脳の状態で最高の値を達するのだから、幸福になりたければ人格を極めねばならない。そしてこの人格の高さは中庸な利他の習慣として達成度があり、段階すらある。人が終生をかけて追求すべき脳の状態とは、また人生の目的とは、この中道の癖である。くりかえすが、凡庸とか凡俗という事は中道と意味する所が異なる。凡愚は利他の習慣を一貫してもたないからだ。