文芸は翻訳がいる、だから文芸は諸芸術より普遍性に劣っている。翻訳なしに伝達される芸術は優れており、純粋音楽や器楽の理論的支柱だ。文芸が普遍性を獲得する場合、それは意味によっている。だから宗教上の聖典は詩文学とみて最上の芸術である。
金銭より学芸の方が優っている。金銭は学芸の手段。金は失われ技は長い。技を高めるまでの修養も、一旦獲得されてからの意義の持続も。時を節約するとは、悪徳をさける事にすぎない。悪人、俗人はこの意味でつきあうほど悪い。俗受けする芸術が無意義な様に。俗衆の中身はない。俗衆は鰯の群れの様に群集心理で動いている唯の肉塊だ。だから俗衆の為に奉仕する事はとりもなおさず悪徳の強化を意味する。さけるに越した事はないのだ。
生きようとすると苦しみが生まれる。俗衆が足りない物を欲する限り、その人はうらまれ、かつ求める物が巧くえられない。俗衆が欲しがらない物を求め、俗人が疎む所を住みかとすれば優雅で幸いにくらす。金を儲けて本能で繁殖し苦役を増す衆愚の生態は醜い。俗人と共にいる事は苦。資本主義、自由主義の下、商人としてくらす事は苦役。俗衆に奉仕する事は苦の増大。下人とわかりあう事はないと心得よ。下人の脳は君の脳と違うのだから。
少食は幸福を作る。大食漢を好む女は下俗で悪徳をもっている。貴人は働く事少なく、考える事多い。我々は完成された心をもっている。我々はそれ以上になりようがない。我々の憂いは俗人と関わり合いになる所から生じるのだ。
我こそが優れていると思う集団は最短で貶められる。我こそが、と思う心は悪。利己主義者は一様に不遇。俗人と共に生きるな。
商業は習慣。相利的習慣としての商業は高徳だろうか? 仏陀やキリストは商人より慈善的宗教人、哲人を理想視していた。なぜ?商人としての哲学者は必要最小の利益以外とってはいけないのだろう。だからその相貌は金儲け以外を生業にしている様にみえるのだろう。商業習慣をすてる事は正しいのだろうか?
中道に近づく為には、生まれもった資質の逆をいく必要がある。関西人、弥生系渡来人は縄文系日本人より生まれもって利己的であり、それは大脳辺縁系の未発達性か、商業文化の刷り込みによる集団性による。だからこの様な利己主義者の生まれをもつ人々は、慈善家の性格を模さねばならない。逆に縄文系日本人は生まれつき利他的なので、奴隷化されない様には利己的な盛者、いわゆる成功者達を模範にしなければならない。最も利己的な渡来人は天皇だろうし、縄文系日本人はこの人が利己の極端な事を手本にする事で平衡をとってきたかもしれない。天皇が最低の俗物なのは疑い様がない真理だが、その最悪の地獄罪人を利己主義者の権化として仰ぐのは、弥生系渡来人の場合は単なる愚昧か悪徳であり、縄文系日本人の場合は皮肉か過度のお人よしの緩和である。
商業習慣は劣っている。慈悲の習慣は優っている。商業習慣より優っている生活習慣があるのに、より劣った形態をもちこんだ薩長や関西人は確かに愚劣である。英米人は悪である。これらの悪人らから離れる事が悟りだ。世界に愚昧な集団があり、それは異なる生物集団と同じだが、その愚昧な集団を変えようとしても無意義だ。獣類が人類を目指しても無意味な様に。単にさけるしかできない。関西も、西国も、英米も、東横も。名古屋も仙台も札幌も福岡も。商業集団をさける事が最良だ。慈悲集団がみつからなければ、自らが先鞭をつけるしかないのだ。利他の為の商売などありえない。相利の為なら黒字と赤字は一定の幅をこえないから、利潤を蓄積する事はありえない。つまり大企業病は株式会社として上場した時点で始まっている。もし株式会社化したとしても、自己資本を中心にしている段階なら問題は薄い様に見えるが実際は、投資家という悪魔の手が忍び寄っているわけだ。投資家をさけるに越した事はない。投資家達は有害だ。利己主義者だからだ。相利の為に生きている様にみせかけている山城人。なるほど醜悪だ。必ず破滅。
相利的な会社、事業は非公開株の元にあるだろうか。非公開株は資本の量が限られる為、奉仕の改良も一定幅にとどまるだろうか。蓄財可能という意味では、当然ながらほぼ無限の公開株が劣っている。結論は事業の合目的性は一定の資本幅に満足する事だ。需給が完全に一致している時点でその商は最良の状態だから、事業拡大をしようとしても実質的に不可能であり、潰れていく。だから相利性が合目的性、事業体はプラスマイナス0が目標。