2016年12月26日

ブッダの輪廻について

ブッダはもう輪廻しないと考えたとして、彼の遺伝子は子のラーフラを除けばふえなかったかもしれないが、彼の肉体を構成していた物質は灰や土として輪廻した。
 有機物の輪廻がゴータマのいうdukkhaであり、自らの脳が無機物に戻る事が彼のいう安らぎ、即ち無余涅槃である。もし有機物が嘗ての地球の海で無機物から偶有的にうみだされたとしたら、自己増殖する細胞、有機物としてのentropy、或いはnegentropyがゴータマのいう苦の原型にある。一切皆苦とは細胞の有機的本性としての負エントロピーの欲に対して自然界或いは外界はエントロピーで動く、という情報量または熱の逆方向性による摩擦反応だったといえる。一切は我に反する、といいかえてもよい。そして諸法無我とは、我が巨視的にはエントロピー反応の部分系に過ぎない、と教えていたのだろう。
 無機物に還元された安らぎがゴータマの信じていた理想状態であり、他方で化学進化によってアミノ酸が無機物から自然的に生じたとしたら、彼の意識に近しいものが生物中の理性的又は大脳的存在として再び決して生まれこないとはいいがたい。かつて人類だった有機物が死体から火葬や土葬等によって分解・還元され、無機物になった状態がどれほどの間続くかは、長い時間としてみれば束の間だというほかないだろう。生存競争の輪廻、或いは業は、生物が自己延長・自己増殖へ方向づけられた反応装置であり、しかもネゲントロピーを摂取する中で自己の系、或いは恒常性を維持したがる点で、この細胞達の業で輪廻なのだろう。有機物は相互に増殖可能性を探り、反応を増加できる形に相互選択していった。そして殖える事にしか目的がない一切の細胞は、微視的には変化している各元素、各単子、各素粒子、各単位の組み代わりにすぎない。諸行無常とはこの現象をいいあてていた用語だった。有機体は自己延長を図る。だから子を産もうとしている本能でできた動物らは、memeの様なその無機物への写しを通してでなければ、単なる自己細胞の延長系による増加の装置だ。相互に競合し、弱肉強食や適者生存、或いは運によってこれらの細胞は自己の系の増加に役立たない他の細胞を自らの系のネゲントロピー増加に利用するか、無機化しようと図るのであり、結局有機物がふえる意味も理由も、物質反応という以外にはありえない。単純化すれば無意味、無意義という事だ。宇宙に意味をつけようという諸宗教の試みは、この点で御破算という事になる。
 少なくとも仏教上の慈悲観は、これら輪廻の諸相からはうまれてこない。それはゴータマ当人の主観的な妄念にすぎない。慈善をなすべしとか、慈悲を持つべきという立場は、競争を諦めたゴータマ個人が乞食や托鉢を正当化する為につくりあげた、貰いのよい乞食になる方法論でしかなかった。自己延長というミームを通した策謀によって、ゴータマはやはり細胞の指令に従っているだけである。
 カント、イエスといったアガペー論者らは中道を説いていたゴータマやアリストテレスより更に極端な慈善主義者だったといえようが、この慈善主義というものも、所詮は他の衆愚に比べて己の品位の高さを示す、という俗物根性の帰結である。だがこの慈善は少なくとも習慣によって善意という資質を作り、善人の遺伝子を偶然によってか残し、利他主義的な傾向を持つ個人からなる一群の社会を作り出す、という特殊な結果をもつ。要するにゴータマの慈悲観は彼の理想とした社会から逆算した結果論であって、宇宙の無意味さ、無意義さから直接導かれたものではなかった。世界の生物が苦のみで生きている訳でない事はいうまでもなく明らかであって、そこでいうdukkhaは単に無機・有機現象上の逆反応の暗喩である。
 ゴータマの理想とした社会は縁起律の理解からくる慈しみの連鎖によって乞食や慈善生活のできる状態であり、彼のやり方に習った人々はアガペーを説く事の実質的な報酬に、生産者から物資を分けてもらった。つまり慈悲詩人の生活をしたのである。『スッタニパータ』(第1 蛇の章、田を耕すバーラドブァージャ)にあるよう、ゴータマ自身は言行に対価を得る事を軽蔑していた様なので、乞食をしなければ生きている事もできなかった。カーストから離れ放浪生活を択んだ詩人は、利己集団の苛烈な競争を離れて死後を尊んだ。ゴータマの人生は社会からの逃避だった。
 自然死によって肉体を無機物に還元した上での永遠の死、又は再び有機物に生まれこないという希望がブッダの理想の境地、nirvana、nibbana、涅槃だった。