2006年9月24日

民族主義の自己破壊性

国際外政は常に多少干渉の関係にある。それはunited statesの内部構造がやはり国家同様なのに等しく、苟も地球に建国する限り永久に逃れられない村原則である。孤立した社会主義国群が遅かれ早かれ、干渉の道理に従って民主化されざるを得ないのは自然だ。それは直接的奴隷使役が国際法治によって禁止されるのと同様の文民化・civilizationに応じる定め。しかし、大多数の人民がそれ故、総意としての世論が心配するのは維新摩擦を加速させるような政治悪意なのだ。
 先進連合国際高級官僚諸群は彼らの多分を信念づける現代的な価値観に基づく功利体系・pragmatismに依って、程度はあれ破壊をお祭り騒ぎ化しなければならなくなるだろう。なぜなら必ず勝つ戦争は唯の八百長試合であって、弱い者虐めの大袈裟化にすぎない。彼らの最悪意は国際関係の道具的援用にある。これが現代政治悪意の病根である。とは言え大衆民主世論に可能な批判が、殆ど絶望的に無力なのは疑えない。それは世間一般の常識を反映するに過ぎず、自由主義を標傍する近代国家では必ず自我と自他の区別の前提を要するのだから。だが、実践的に社会改良を施しうるのは常に政治活動である。現代の文民は民族主義・nationalismの極度徹底的排撃によって背理的に国家=nation=言語を文化的に存立させ続けると共に、その実際政治的な転回を促す公衆世論の大導を面前と働くだろう。それは多民族共栄関係へ人間を整え、かつ国籍・nationalityを交換可能なfashionにまで還元できる指向だろう。