2006年11月23日

理想主義

私は文学なるもの、文芸において次の事を発見した。私は文芸が言葉のあそびであることを知っている、それがゆえに合目的性を満たすのである。そして理想主義によってのみ、文明の崇高は創作しうることなのである。
 私は最初、現実主義を追求していった。有り得る物語を文章の眩惑の中で可能なかぎり、巧みに表現しようと試みた。これはルネサンス芸術一般に言える事ではある。だが君は写生の根本的不可能性に気づく筈だ。そしてあらゆる文章を詩化するまで抽象しても尚、その究極の形式にはどうやら到達しなかった。理想主義は文芸の最終目的である。形而下的生活の仮想であるにせよ、形而上的修辞の耽美にしても、それらの用いる仕方が一点の理想へ導かれているときにのみ、文は崇高な芸術となる。
 私は理想主義という言葉へ文化の終極を観た。専ら、文芸の制作に社会的価値があるとするならば、その文明性による。言葉遣いを一定の時代拘束から外すことで現実とは相異なる世界観を現し世へ表出することこそが、文学の義務なのである。私は創作の中で構想力のかぎりの理想的環境が次々と実現するのを視た。実際のところ、それらは私の精神が創造した理想的にこそ経験しうる新しい世界だった。逆に、現実なるものは今や単なる創作用のたとえに過ぎなくなったのである。私は人生にではなく、文学世界へ生きることで完璧に審美観の究極が充たされるのを感じた。そして如何なる意味合いにおいてすら、身体的に体感すべき生活は第二義的なものとなった。凡そ哺乳類の身体で産まれた人間の、社会環境の絶対不条理さにおいて、この文士的な暮らし方が本来的であるのを覚えてさえいた。
 私の文学は理想主義の確立によって現実世界の上位に立つ次元を獲得した。そして後世の文明はわが理想を模範とし、結果としてよりうつくしく生活するであろう。