2006年9月20日

建築論

建築が根本的にグローバリズムに反するものであることは明白になった。世界資本経済の爆発的膨張に対して建設としての建築とは批判。建築に可能なことは常に伝統文脈への批判であり、仮に地球文明の東西南北で隔時間推移にあたり対比的・文化的様相を呈するとしても謂わば破壊しながら構築すること、世界を再編する事。都市生成という甚大な活動の根本には、形而上、理想的な目的形相、文明があることが明らか。そうでないとすれば、おしなべて建築とは自然の戯れにすぎない。
 なんの脈絡もない建築形態の多様化とはすべて構築主義の堕落。脱構築は建築があからさまに伝統文脈に対する知的批判である時にのみ、つまり創造的皮肉であるとき反証や二律背反向上の轍となる。
 審美の対象としての作品がもし超越論的仮象の上だけだとしても史実として組積されていく限り、空間理念の絶えざる再編は、各天分の想像力を造形環境の適応合目的性において趣味判断する価値観の連関として需要される。もし競合的な要素が建築運動のうちに多少あれ有りうるなら、それは他ならぬ再編の発明を切磋琢磨せしめんとする文明の功利生命に因る。だから実際のとある建築家つまり時代計画展開の仮設的代表が、彼の自律をまずなにより理屈の上でのみ実現できるのは職人や用件の指揮に不能だからではなく、功利を兼ねるという極めて不自由な実存の立場に依る。この面でアリストテレスは誤りを侵している。それは、指導役の実態は哲学の暗喩として不適切なのだから。いいかえれば実務に際して形而上的であることに応じてのみ建築家は職能を全うする。一方哲学は対科学的に実践的でなければならず、形而上の問題を具体的現実の為に総合しなければならない。然らば、書斎内脱構築の無限ループは偽善とは言い切れないにせよ非建築的。
 結局、建築の発明とはいつも、乃ち造形技術指導原理の確立。それは素材に固有する執着でもないし、ましてや規則じみた形態操作を伴うような堅苦しい合理性ではない。
 建築原理によって半ば創作的に、半ば社会生成的に再編された具体的形相は、地球の各地にありながらも、その自然に対する宇宙性を抽象によって目指す事で、われわれの想像力を楽しませるような興味深い空間を形成する。