2006年12月9日

美術史論

ルネッサンス美術を伝統とみなす考えは単にボザール流の仮設されたそれに過ぎない、という正見を持つを得る。さもなければ現代美術を相対化できない。
 文化自体は多元律的。我々は社会情勢によってここにしばし等級づけるが、実際には、めずらしさはその社会資本格差によってしか育まれない。そして多様系は、審美観なる舞台の上にはまるで平等。乃ち、我々に伝統の道は複数多層にある。美術史は企画者に意図して作られるものであり、必ずやかねてよりありしものならず。
 文明の先鋭端は世界文化全体の傾向を否応なく導くものである。なぜなら教養の余裕度が作品の出来高を押し上げる。だからこそ伝統はつねに覚者による、おのが趣味の権威づけという作為。それはa prioriでない。飽くまで改編できる後天的なもの。美術家が為し得るのはこの流れをより条理よく普遍化する指向のみだ。最大多数の最高幸福たる文明の環境指導以外のどんな目的も美術史になし。
 美術史は多彩な傾向をなんらかの意図のもとに再構築した虚構にすぎない。我々はみずからの属する文明を理解するため応急にその試みを考え出した。しかしながら、大河的流れの中には決して数えきれない種子がある。事実、美醜の判断はここから宝と芥とを選別し、より綺麗な環境をつくる便宜。趣味とは生活様式の自意識的批判である。
 彼らは芸術を通して、人間たるものとして暗に誇りうる感性を有して世間の美化に寄与する者かどうか、絶えず試験される。事実それは職業でなければ文明人教養の類として必修。