2006年11月2日

現実

落ち葉を踏んで歩む足跡は軽い。綺麗な夕焼けが紅葉の層間を透けて射し込む。池を回遊活歩するうちに、後ろをいつのまにか着いてくる子猫がある。やからは岩間を這ってぴょこんぴょこん跳ぶのだが、仕舞に草むらへ墜ちそうになる。可哀想な奴に違いない。なんの因果で私に着いて来るのか。
 池の表面をぽちゃんぽちゃんと鳴らす環境音が一人と一匹の隙をく。途端に秋雨。世界はずぶ濡れに染められる。パーゴラの下に急いで避難する。猫もちゃっかり着いて来た。
「災難だね」
「全く」と、私は言う。
「これからどうするつもり?」と猫が聞く。
「別に」
「じゃあちょっと着いてきて」
 雨上がりの水上にはちいさな虹が架る。午後の講義終わりの私にはなんの予定もない。仕方ない。行こうか。
「いいところがあるんだ」
 獣路けものみちを抜けていくと、武道場の脇にあるちょっとした見晴らしの点に出た。
「ここ?」
「そう。ここ」と猫が頷く。
 人工芝のサッカーグラウンドが見渡せる。
通り雨にも構わずフィールドを駆け巡る22人のプレイヤー達。
「懐かしいな」
「なんで? 昔サッカーでもやってたの」と、私は聴いてみる。馬鹿らしい。なぜ猫がスポーツなぞを、と知りながら。
「うん。実はU-20の日本代表候補に上がったこともある」
だが、不意の事故による脊椎の損傷でメンバーから外されたのだ、と猫は云う。
「話せば長くなるけど」と、猫はちょっとため息をつく。
「ボクにも美しい青春はあった」
 沈黙。ホイッスルが鳴って、試合は決まった。勝った方の赤い服のチームは互いに抱き合って、一時の歓びを分かち合う。負け組はうなだれてる。灰色のユニフォームはぐっしょりぬれて重たそうだ。
 しかし、グレーの方の背の高くないキーパーが相手方の一人と握手をしたときに肩を叩き、なにか呟いた。
 すると猫が言った。
「ボクはあの選手の家で飼われてる」
へえ、と私は言う。そうなんだ。
「彼はとても優秀だ。だけど背が産まれつき低い。仕方ないね。きっとあれ以上、高いレベルには到達できないだろう」
 緑の地の上に赤と灰の混ざりあった点々が整列し、挨拶をして日が暮れた。
 私と猫はそのあと暫くあれやこれやの無駄話しをして時間を潰した。猫の好物は煮干しらしい。どうでもいいことだけれど。
 スタンドに灯りがともる。独りの選手がボールをリフティングしながら出てくる。
 居残り練習は続けられる。
「ああやっていつも変わらず努力しているのさ。もうみんなは帰っちゃったのにね」
「努力は報われるのよ」と、私は言う。
「果たしてそうかな。彼は丁度昔の僕みたいに日本代表になりたいんだよ。あの背では一生がんばっても無理さ。自分でも気づいてる」
「じゃあ、なんでああやって懸命にトレーニングしてると思う?」
「趣味さ」
シュミ、と私は不思議の表情をして、もうとっぷりと更けた闇にきらりと輝く猫の眼をみる。
「趣味。所詮、プロにはなれないんだもの」
そして社会のうすら寒い体制に組み込まれて慣れていく。定めだ、と猫は飽くまで冷静だ。
 サッカーボールが影を映さないよう四方から等角に投影される照明を受けてきらめく。
「夢中だ。教養小説の主人公の様だ」と、猫がけたけた笑った。
 それから猫は欠伸あくびをすると、さっさと夜の水戸へ消えてしまった。