2006年12月8日

芸術について我々が真に対照すべき先例はすべて、古代文明の遺跡の中にあると私は思う。なんとなれば同時代の流行は浮世をわたる便利にすぎない。真の傑出した天才だけが、歴史より普遍的な匿名性をその作為において独創する。たとえ遥か後世に遺された幸運な結果が彼個人の制作に預からぬことであったにせよ、あらゆる文明の建設はかの模範の上に出来上がったもの。彼の神格的尽力は天性を十全に発揮しようとする。ならば傑作への崇拝はことごとく皆、とある文明を顕現した思想種を世界遺産として記録しようとする本性だ。知能の好しあしは千差万別の芸能をあらわすが、文明の粋を極めるのはそのうちの最高種だけである。他のあらゆる才能は模倣あるいは影響によってのみ社会建設へ参加する。芸術は趣味如何の建前のもとに環境改造の適応性を試験する制度に過ぎない。我々は美醜の別という概念を利用して公に議論し、この効率を図る。しかしながら崇高さ、つまり超越美だけが他のなべての駄作から傑作を見分ける特別の感覚である。以上を鑑識すれば我々が飽くまでも信頼し、大事にしなければならないのは崇高な作品だけだ。その直観は、単なる個のわがままを超えたものとしての、極度の合理物証を意味するから。そしてこの崇拝が文明度に則して広く合意形成すればこそ、世界遺産は命の結晶として未来へ栄光を照らし出す。むしろ警鐘しよう。我々自律有機体が繁栄によって目的とするのは、実はこの栄光の延長そのものである。謂わば希望として。繁殖を安寧に導くのは、未来永劫の人間ならざる世界へ向けた文化的貢献である。芸術、あるいは、ここで云うところのその近代理念を超えた希望の種としての崇高な象徴の創作とは、我々が我々自身の満足のためだけでなく、我々のあとに生き延びる人間ならざるものへ向けて贈り物をするための努力ではないか。尤も、人間の誰にもこのイデアに審美判断を下すことはできまい。彼らには命の生存欲求の演繹としてしか文明の至宝の意義を知れないから。