2006年9月30日

いろどり

重なり合って延びて行く沢山の層が、地球のあらゆる物語を相対化してしまう。人類がどの様に暮らそうと、そんなのは大世界の展開にとってどうでもよいことだ。小説は人間ジンカンを描くのに四苦八苦した。だがそれは、作家の人生観を読者とを対話させるような文字列の遊びだったに過ぎない。
 近代人は自由の権利を社会的に拡大するに応じ、生活において多様な選択肢を余儀なくされる。小説、幻想を排した物語はこの様にして需要に当たり、複数の主体がその生産消費へかかづらって来た。
 歴史は時代という層を透かして数知れない劇を観せてくれる。彼等はそこに登場人物の一員として置かれている。
 僅かに数十億年の合間、一個の恒星が誕生して死滅する。近くの惑星では偶然に奇妙な有機体が明滅するかもしれない。だが、それが何だというのか。
 地球が太陽の周りを地動するのと同じく、太陽は天の川銀河の中央にある重力点を中心に天動している。
 両者に詩的隠喩を適当させるのは、いうもおろか文士にはさほど困難ではない。宇宙は両者が戯れる歯車という、非常に単純な構図で理解できる。そして人は明らかな文を彩為す。色とりどりに紙面を濡らし、心象を冒す風景を画く。まるで一夜の夢らしく。
 何れにせよ、文学がもしここにあるならば、の話だが。