2006年12月31日

善導

我々は言語概念を利用していずれ文明を促す。哲学は言語の用法を記述するに過ぎない、というヴィトゲンシュタインのideaは正当でないと批判できる。なぜなら言葉は道具であり、脱構築的にあれ実用的にあれある思想を形相づける方法。言語学批判に限らず。
 我々は言語固有の文化を持つ。よって普遍的観念即ち概念を創造するため、つまり啓蒙のために必要な文脈は各々異なる。脱構築という哲学的批判の方法は、文脈の相対化に役立つに過ぎない、それは語族に由来する仲間性を文学から排除する。脱構築とは文学批評専門の道具。そして無論、破格そのものは目的ではない。
 我々は破格によって哲学の終点へ辿り着く訳でもない。思想潮流による近代化をおこなうのは、文章の善導的使用の歴史的努力に違いない。文明は哲学を善導の中枢と見なす。