都市という総合芸術は文芸の前提に存在する。我々は文芸という観念造形的営為を暇つぶしの仕方として用いる。小説なる形式は、かの演劇術のために設らえられた台本の役割を果たす。
我々は暗喩にあれ、人間活劇の方法論において小説を読む。万人のための脚本として模範を示す目的が文芸にはある。音楽、絵画、彫刻、建築、そして詩歌と順に次元を上げていく芸術構造は演劇という最終形式で完成するだろう。そして我々は芸術におけるモダニズムが普遍化を旨とする事を知っている。現代芸術家は審美という道を辿り、個性のための表現をやめて、やがて万人のための世界をかたちづくる。
我々は自然への抽象という作為の結果、自らが芸術界の住人である事を悟る。彼らの環境作法を規律するための合目的方法論に関する試行が、芸術という適応営為なのである。則ち、演劇術、生活術において君は人生を崇高な作為と認識するだけの環境的恵みを必要とし、その演繹還元上の帰結として日常における合理観を調える。
演技とは、合目的性あるいは合理観の演劇芸術的実行である。
文明芸術の総合は、芸能人生においてその審美目的を達するのである。この様な当為的未来における芸術の完成のあとには、現代人類が認知する芸術とは違う概念が市民へ自覚共有されているだろう。現世人類までに至る我々は、芸術という形而上イメージをまずたんなる工芸分野区割の工夫に用いてきたにすぎない。また、その発展として、趣味という範畴を通じて生産工芸品を非体系的に民主審査し、環境学的合理性の時代適応度を再三試験してきたにすぎない。未来人または文明人が芸術という用語をつかうのは純粋技術の意味においてのみである。それは今日におけるごとき応用方便、或いは付加価値創発的な遊びを内容しない、ただの人間原理上の合理作為を表現するために表現されることばとなるのだ。それは特権的理念である事をやめるだろう。またしばしば高尚理想であるとすら意識されないだろう。創意工夫のとるにたらぬ独創や天才を指すものですらなくなる。我々は芸術というイデアを人間の環境再創造行為の基本主義として普通一般に認識するに至る。いわゆる造型美術における美術館の役目はそれまでのあいだ、大衆を啓蒙しつづける、暗喩下の社会環境模式を示した公民学校となることだ。更に、美術家とはここでの指導者を意味し、彼らの公務は想像しうるかぎりにおける普遍感覚の導引なのである。