実際、私は次の規則を守っていた。科学・哲学・芸術とは異なる体系である。
Kantを引用する迄もなく、それらは別個の学術体系であって、当然、学習法も教授法も、適宜応用すら異なる。にも関わらず私自身はそれらへ「等価に」参加することを必勢とした。いいかえれば私は、私が経過した学習能率の便宜を説明するために、殆ど忙殺にも値する多大な工夫、すなわち教育学を要しなければならなかった。
それは批判哲学の簡略化というかたちをとり、私の講義の主たる支柱として常に導引、educationのため利用されねばならなかった。学識の禅譲には不当な援用だとは知りながら、である。生徒への直接な批判はいつでも適切ではない。すべて現場で発生する誤りの原因は教員自分の立場にある。また我々は自らの自律の知性が及ぶ限りについてのみ、分野横断は正当である。他人から教授された学問手段は所詮かれらの個性に合致せずいずれガラクタなのである。
だから次のように言える。私は諸般に及ぶつまらぬscholarshipを利用して天性の生徒に通学用の無駄な労費を負わせ、青春の貴重な時を暇潰しさせ、換言「教授」なる自己欺瞞のため堂々搾取していたのだ、と。講義は謂わば、学究にまつわる芸能小咄の類に過ぎなかった、とここで明言しても良い。私は世間では輝かしい称号と信じられている天才という言葉を、ある種の蔑称、つまり通常の努力のおかげではなく遺伝子の突然変異のせいにして人間性を隔離するものとして受け取った。そうせざるを得ない事情は世界にはない。必竟、文明思慮の不足の前に無力な教育制度の拙劣に帰する。そして大責任を請け負うのは唯、世界中で私ひとりだと信じていた。それがたんなる気負いに過ぎないとしてであれ、私には自らの塵労を尽くして処方を改革しなければならなかったのだから必ずしも無駄な認識ではない。結局のところ私は教育者としての成功を素直によろこぶだけの余裕を、引退のその日までもまったく持ち得なかった。
理由を述べる。第一に、研究の問題がいつも頭を支配していたからと言おう。第二にこれが自認する真実なのだと言うが、いわゆる担任後進生の中においてですら、originalな業績を果たすためには独学の姿勢が肝要であるとはっきり悟りきっていたからだ。老いても私は教員なるものに、学際的な慈善心を満たす副業、あるいは盆栽風な私的文化としての価値しかみいだせなかったのだと思う。よく云われるように、先天性は教育によって伸びるものではない。教育によって伸ばしうるのは後天性だけだ。そして後天的に得られることによって達成できる諸学而領域とは、所詮は「普通の程度」に過ぎない。それが、私が教育制度の中ではたったの一度も本物の天才には出会えかった理由なのだといまだに思っている。我々が高度教育によりはぐくみうるのは秀才だけだ。真の天才はおのずから生長し、我々のはるか頭上を自在に飛翔して、史上に滞るあらゆる疑問を難なく解決してくれるものなのだ。