2006年12月25日

文明論

いかなる神格的天才と言えども愚者の分子を含まぬものではない。只人間精神には程度の差があるだけ。そしていかなる高貴も、如何なる愚劣もすべてこの範囲に属する。我々が学ぶのはより高級な格式へ到達したいからであり、それは社会内在化された生存競争の型であると言う事もできるだろう。
 我々は学習の密度によって智略を図り、結果として種内福祉を達成する。哲学は言語概念を利用して以上の図式を能率づける便法。その主要な手段は時代適応活動の思想による合理化。だから、あらゆる哲学は主体を離れては存在せず、謂わば常に時代精神に束縛される。この点で、哲学は時代の奴隷。
 にも関わらず思索の方式は次の事を示す。普遍性は仮象であったにせよ、哲学的合理化の中に暫定的な姿を現す、と。定言命令とか良心の声とか呼ぶ我々の理性概念は人間社会にとり不易なるもの。もし思想に価値があるとするならば、愚かさの程度に属する時代内主体へ理性概念を啓蒙し、天才の程度に属する者の道徳を益々普遍性へと引き上げる事だろう。言語概念はこの命題、文明論を推進する為の便利。我々はこの道具を巧みに扱う事を要する。
 究極には意味を取れない事、つまり差延とか、文脈を民主的歓待の次元へ揚棄する事、脱構築とか、いわゆるpost構造主義の分析哲学は修辞学の分野に属するものであり、言語の哲学的使用という文明論の基本命題に答えられない限り誤謬である、と見なされなければならない。