天才は学歴ではない。ある創造的構想を果たす技能は、科学的学習知性やその成果とは別の才能である他ない。彼らの天分は知性と徳性とを何らかの想像力上の奇跡によって媒介する様な才。よって、知性の為の学習、科学の勉強とか、或いは徳性の修養、思索の慣習とか、そういう活発は芸術家にとって副次的なものにすぎない。
彼らが先ず第一に鍛錬するのは構想術の精通。美術分野に応じて微妙に重なり合いながらも異化しあう様な、技術上の趣味判断に多彩系がある訳だ。正解不正解ではなく、飽くまでも審美的感性の範畴に於いて。これは造型が一定の人間原理的な基盤に築かれる以上必ずしも世界史に孤立して点在するものではなく、参照という審美価値で過去の作風をまねぶことは彼らの屡々試みる修業だったし、これからも随分とそうだろう。いわゆる体系だった学問的なものは、作品の残存しその鑑賞に影響を与える時代に対する最低限度の教養として制作の端々で彼らの選択を自己批判する際に役に立つのみ。
科学や哲学は芸術にとり必須ではない。それは基礎づけの知能程度に格差を設けるだけ。よって、芸術は学歴に依らない。
又「私には天才がない」という論理は破綻している。美術芸術とは趣味判断の多様系の総称であって、天才とは個性の別称。だからそもそも芸術美術に教育は不可能で、いついかなる場合、誰にとっても唯、意見が出来うるだけだ。結局、構想洗練の相違による芸術の実現は、彼らの環境風情に対する愛玩の仕方を左右するだけ。つまり、芸術とは定型の文化的な美意識を意味内容する。それは様式。もし豚と人とに芸術家としてのちがいがあるなら、彼らの生活する様式だけなのだから。