2007年12月31日

性差批判

恋愛を好む男の心理は醜い。薄情な女が厭われる様に、其は何一つ好ましい結果を斉さない。
 俗に男子は女性の好意を避けるべきでないと云う。此は野蛮界の醜風と言える。何故なら浮気者の理性は貧相だからである。
 愚婦の夫も愚劣に陥る。不良夫婦の子孫が善良に成ることも希である。
理性が欠如した子孫が如何にして理性を接種しうるであろうか。伊は学問によって補佐しうるが、判断力だけはより理性的な配偶を求めぬ限り、非常に確率の低い突然変異に期待するしか無い。
言い換えれば不良夫婦の子孫は「進化」を期待できない。人類が類人猿の理性化した種類なのは明らかであるから。
 賢明な夫婦の子孫だけが文明の進歩に逆らわない。
由りて男子の本懐に恋愛は挟むべきでなく、理性を至上の特性として保存せねばならぬ。女子の情緒は本能より好ましく理性よりは浅ましい。男尊女卑の信仰は人類の進化に寄与する。之を男女の別と云う。
男女らしさの別がなければ性別に拠る多様性の基本律も次第に無効化するであろう。それが人類の形骸化でなければ末世であり、女性の権力は常に時代の退廃として現れる。
最上の男子はあらゆる女性より必ずや理性的である。

理性論

理性は最も抑制された本能であり、人間にとって有用。
 理性は社会的にしか存在しない。無人島で暮らす個人にとっては本能が唯一の道具。
 人間性は理性によって測られる。
 機械は我々より理性的だから我々の最良の特性は感情でしかない、という意見へ、機械をも用いる理性は人類しか専ら持たないと反論できる。機械は良識のみならず理性をも持たない。機械にはある種の知性の肩代わりが出来るだけ。感情とは理性に対する共感能力でしかない。
 それは進化から置き去りにされた本能的な感覚、感性の発露、主に五感の亢進作用の名残りであり、母体が生殖の媒介を担う限り感情は洗練されることはあっても哺乳類たる人類界から消滅しないだろう。

人柄

人間は世界をgame programする生き物。
 予てからある文明にとって比較的容易な仕事は社会的弱者にも委せられてきた。
 人間にとって最も幸せな時は子供時代。若し成長すれば義務が増大し自由は減退する。ある人間の最大限の特長は子供時代に発揮され、二度と変更されない。是は性格と呼ばれ、ほぼ矯正できない本性となり宿命を斉す。
 生涯のcharacterは自ら招いた運命らしかった。

乗り物から観る街は普段より美しい。
 街は意識されずとも審美的鑑賞の為に築かれる。ある民の美意識は街に最も無造作に表象される。博物館ならぬ美術館は、市民の環境創意にとって参照の役に立つ。
 人間の生活の全体はどれもこれも美術でしかあり得ない。

趣味論

普通な趣味だけが好趣味とは言われ得ない。当社会全体に悪趣味が普通ならば、より普遍的な趣味が始め風変わりに感じられても仕方ない。
 人間は尽く皆進化を目指す。多様性に適応しない様式は何れ淘汰されて行く。
 情報機器は単なる道具である以上、未曾有の猛毒ともなりうる。それは幼少者にとって趣味に与える影響が多大。

格言

寓話的でない小説は格言と呼ばれる。

性愛

あらゆる恋は馴れ合いと共に去る。美化する必要のない性愛には恋する理由もないから。この段階の知能が、人類の系統発生にとって初期的なのが分る。
 賢明な若者は恋愛にのりうつられない、それが毒であると悟るが故に。幸せな結婚とは最も恋愛から遠い。個別への愛情は気まぐれによるが、違約の恐怖によるreligionalな契りが無ければ性愛関係は永続し難いから。

組織進化

あらゆる組織は進化の為に脱構築を要する。

なぜ人類の心臓は普遍的に左側に偏ったか。

2007年12月30日

意味

人生へ予め与えられた意味はないがそれはつくり出せる。

2007年12月29日

絵画批評

裸体画を観賞する西洋人の趣味は下品であり、文明人の名に値しない。ギリシアの偶像崇拝を悪用した所で意義もない。誰にとっても相対的でしかないように西洋人の趣味は普遍的ではない。マネのオランピアを堂々と飾る西洋人は恥知らずと言って国際非難に遭って良い。

信仰

立派な人間だけが時代を超えて名を遺すに足る。

彼等を於て他に凡庸な人間は絶えず隙間を埋めているのだから。

信仰

衆愚は自滅する。
衆愚を見るな。
衆愚の汚れは近づけば染(うつ)る。

芸能批評

彼等は厳しい家庭にある娘の門限を守りながら親交を深め、男の海外での仕事が増えるのを期に結婚すると云う。家族は清潔な交際を続けて来た彼等を快く承認した。とすると、彼等をこそ範に仰ぎ、第一に愛娘には厳格な躾を守り、第二には男性ならば辛抱強く適切な配偶者を待ち続ける事が、良い結婚をする為の参照になるのだろう。
 昨今の軽薄な夫婦が長続きする可能性は全くない。人間の配偶とは社会的承認の儀式に過ぎないからだ。若し単なる性的間柄ならば態々結婚する価値は無く、社会的に承認された家庭を築く価値も無い以上、時期と共に崩壊しなければ寧ろ不自然と言える。GHQの政策は封建体制に無理に関連付け家族制度の破壊を企てたが、男女交際の良識に於ては日本型伝統の方が余程優れたものであった。

2007年12月28日

walkman批判

MD[Mini Disc]は極めて優れた製品規格で、ipodの流行が過ぎれば世界規模で再び需要が増進する事は間違いない。
音楽を含む一般記録用のCD[Compact Disc]が含むほぼ全ての欠点を解消している。いわゆるスマートメディア類に比べ量産可能ゆえ安価で日用に向き、何よりカートリッジ型でメディアのほぼ半永久的な寿命を確保しているのが決定打となった。
MDはCDより市場規模も広く市場寿命も長いのは疑うべくもない。というのは、その規格さえ伝播すれば中身のディスクを[Blu-rayやDVD等へ]層状高度化するだけで大容量に対応しうる。

walkmanがipodに対抗する必要は何ら無いであろう。両者は理念が違う。
ウォークマンは初代会長の娘がラジカセに齒り付く代わりにportabilityを持つオーディオをもたらすのが初志であり、ipodは単にパソコン内楽曲のmobilityに過ぎず新型オーディオプレイヤーとしての発祥ではなく、浅い。言い換えればipodとは音楽機能に特化した持ち運ぶデジタル信号機でしかない。
walkmanが世界中に発明した『携帯オーディオ』としての品質はMD市場の巻き返しによって必ずや実現するであろう。

商品案

電球色の原因はフィラメントの発光に帰着する。
蛍光灯は紫外線を蛍光塗料層を通じて視覚域に調整している仕組みなのだから、この塗料の種類を[現状でも一部普及している]暖かみのある色に代替すれば電球色と変わりない視覚的な安寧効果を蛍光灯ながら得る事ができる。

例えばアメリカ市場では電球に未だに需要があるが、enelopの様に「環境意識」に訴えるパッケージに仕上げ、電球型の温色蛍光灯を宣伝すれば相当の儲けや社会貢献が揚がる事だろう。
これを[商標自由で]仮に『enelook』と名づける。同様の波及を狙って再輸入すれば日本に於ても冷たい色彩の蛍光灯普及率を、例えば家庭の居間や食卓から体よく追い出して無意識の団欒に寄与する所多大であるだろう。

情業政治

自由主義政策の欠陥を周知喧伝させる最良の方策は、餓死者や生活被保護者の悲惨に対する天下り官僚や学閥大学生の日常的放蕩を積極的にdocumentaryで取り上げ、民度の底上げを謀る事である。言い換えれば新自由主義改革の明暗を啓蒙的に取り上げて、国民的政治批判の対象に仕立てる事だ。情報啓発としてこれは報道機関の使命と言っても良いだろう。
 自由主義思想自体にはアメリカの失速を診れば既に終焉が訪れており、もう分業至上的段階である工業化をほぼ完了した日本には何ら模倣に値する物ではない。我々の政体には民主社会主義的議会修正の傾向を持つ党派が明快に存在しない限り、政治思想の大後進国だと言わざるを得ない。
 情報産業段階では経済発展は、分業によってより寧ろ階級間協力によって図られるだろう。学歴差別が形骸化し大学生の不勉強や低落を招いている現状は、工業段階の適応倫理が使い物にならない事実を示す。

工学

蛍光灯はどうして点灯の度に相当寿命が短くなるか。不便が残る限り我々は蛍光灯より熱能率の良い照明器具を開発普及しえるだろう。フィラメントの素材やブースターを工夫する事で現行の組成でさえ寿命を伸ばす事は出来る。

国際共生論

人間の営みは共生を目指す。
 誰も他者を目的のみならず手段としても用いるとするならば、究極の共生は相利関係にあると云えるだろう。これを古人はphiliaと呼んだ。

 国際philiaの為には我々のnation特性の開発が不可欠だろう。どのnationも代替不可能な個性や、独自の存在意義や生産性を保つ事が出来る。各文化の特産は他の文化では手に入れる事ができない。

 従って国際共生にとって相利貿易は必須。この為に国際関税の基準rateが国連採決に課されねばならない。
 配分のみならず、妥当な調整性を持つ規制が国連的に図られる事は世界恐慌を未然に防止する為にも必要であり、その可能性は単に国際世論としての衆度からの啓発に依存している。

現代社会学

国際協業の最小単位説。社会ある限り人間には不条理の余地あり。故に人間には仕事あり。人間の不条理を齎す物は我々の間の偏差であり個性である。個性間には競争状態、乃ち支配‐被支配の上下関係が必勢と成る。而して人間には永久に社会関係以外は存せず。人間にとっての仕事は多少あれ調整可能な体制構築であるだろう。というのは配分已の体制ならば自然界に等しいのだから。資本主義は分業の有意に偏差競争を利用しようとする。だが、何れ程人間が要請した所で彼等に理性ある限り、我々の経済は福祉の為に存在するに過ぎぬのだ。社会を築く理由はそれしか無く、福祉を逃す行いは犯罪とされる。中福祉体制は国際的にのみ有効だろう。貿易差額を差し引きした結果、あらゆる国々に最大多数最高幸福が発揮される様でなければならない。従って、国際分業も又、福祉経済の手段でしか有り得ない。行き過ぎた貿易摩擦は折中する意識の上で解消されねばならないだろう。寄付は摩擦解決の最良の方策の一つだろう。民族に文化個性が普通である限り、我々の間に国際競争が起るのは自然でありその完全否定も必ずしも功利的ではない。かと言ってある強壮個性が多様系を破壊する場合、これは生態系の本末転倒なのであるから、我々としては貿易blocを用いて適宜保護貿易を強化する必要を負う。国際協業とは分業間に永続的な共生関係が築かれた場合の国家間関係を云うのだ。必ずしも傘下でなく、相利であれ偏利であれ多彩な共生関係の構築は我々の文明を安定化させて行く。
 他方で、如何なる癒着も大企業病に陥る危険を伴う限り、これ等の協業とは飽くまで国家という最小国際単位の維持促進を前提する。国家消滅は幻影に近い。例えば、人倫の王国に於てすら、storgeそのものや家族は失われまい。偕老同穴は人倫の基なり。却って家族の絆は単位系として堅固になる許りでは在れど。

世界は自体として何ら不自由なく動き回る。人間はその一部分として自らの社会を築き上げる積りらしい。全く、大変な話だ。彼等は誰も世界が回る理由を知らないとして、如何して事態を静観出来ると云うのだ。世界には知られ得ない側面が多過ぎて、人間の絶望に寄与するところ多大である。沢山の人類が文明を築き頓ては去る已。果たして、何処を彷徨うに為てあれ、人間は又宇宙の塵芥に変わらぬ。人生は夢枕の様で果ない。尚且つどんな夢を重ねんと為るか。散り往く草葉に隠れて仕舞うが良いのに。我々には求む可如何なる栖も拙い。

空虚

如何なる人間も虚しい。孤独は心を励ます。

2007年12月26日

明治大学生の応援団員自殺遁走事件

明治大学の応援団にて後輩虐待で自殺誘発の事件あり。

 日本人的組織は旧来縦繋りしか存在せず、如何なる悪業粛正も下からの批判は犠牲を伴わねば不可能の陋習あり。
 日本人には組織直接の上下を飛び越え重鎮直訴しうる匿名投書可能な目安箱が常々必要で、且つその上告情報に基づく調査裁判を飽くまで精密に行う信賞必罰の原則は必定なり。

 今回の隠惨たる事件は端緒が現れた時点で飛び火の恐れもありしか大学側の捜査手抜かりがあり、暗鬱たる悲劇を遁走暴露の醜態に誘う。隠蔽体質あり。孔子曰く過てば則ち改むるに憚ること勿かれと。錯誤は修正せぬ限り悪評を振り撒き続ける。
 上は天皇家から下は宿無し迄、日本型組織において縦繋りの弊害は通底する。和を以て尊しの小心空気に偏重し、人権の一義をなおざりにした悪果なり。

2007年12月25日

君子論

衆愚の空気に呑まれて大局を読み誤る小人に対し、君子は賢慮によりて百億の妄言からまことを峻別す。

芸術論

あらゆる芸術は演劇に総合される。

2007年12月24日

構想

人類には構想力の限り世界を再創造して行く力が与えられている。その使い方を誤らない為には、程度こそあれ試行錯誤を通じて已哲学からの統制が必然と成る。科学技術は芸術の手段でしかあり得ない。

工学

気圧変化を退ける方法。飛行機内などに応用可。

2007年12月23日

英雄

英雄的行動のみ時代を動かす。

歌の写し

あだ仲間勝つも負くるも哀れなり同じ御国の人と思へば――大田垣蓮月尼

2007年12月22日

社会学

なぜ人間は働くか。彼らが生活に必要な物資を得る為に。要するに共産主義とは分業の、従って能力の否定である。ある生産に関する高い能力の持ち主が低いその持ち主と同じ成果しか与えられない自然社会は存在して来なかった。
 対して資本主義は生存競争の経済的肯定であるだろう。全ての自然社会は資本経済的であるだろう。なぜ人間においてのみ調整的正義が必然になるか問えば、我々が人間社会を要求しているからだと答える。我々は単純な生存競争から、自らの体制改良の努力によってのみ脱出し、理想国へ漸近しえる。共産主義はrobot達の社会においてしか実現不可能である。我々人類が自然に支配された肉体を持つ限り、我々の人間において能力格差を終極迄否定し得ない。我々人類は人工知能の製作者として優秀ではあれ、それが精神の限界でもある。我々人類にとっては当為でしかありえない理想国は機械達においては容易でもある。
 資本主義は分業への特化としてしか役立ちはしない。我々は世界宗教を通じてのみ追求して来れた共産制度を生活協同組合の暫定改革によって自らの内部に生み出しえるだろう。その永久改革の結果は我々人間においてのみ調和的な様な中庸体制に行き着くだろう。というのは人間が生まれる限り肉体には偏差が現れ、理想国へ向かう努力しかできず、我々はAI robot達の絶えざる手助けを行う製作者として自らの使命を全うしえるだろう。彼らにとってしか激しい肉体的困難を伴う時間旅行や宇宙探険はできないのだから。例え他惑星の文明人と出会ったにせよ、彼らの操作するロボットを通じて専ら我々は発展的交遊を脱銀河的に図りえる已である。地球は我々の第一の住処である。

2007年12月19日

地方論

秋田県の小学校6年生が全国学力テストで全科目一位の記事。2007年12月19日付け朝日新聞29面。
 家庭学習で書いた作文を提出すれば教諭が褒める優れた制度あり。遊ぶ所もなく、家庭皆が規則正しく生活していると云う。
 地方風土を活かした発展の方角にて、「地方は小東京になるなるべからず」のよき模範なり。

疑問

電磁誘導が起こる原因は何か。電磁波が空間に与えている影響は何か。人間の欲求の限度は何か。人間には力の及ぶ限り世界を改造する自由を与えられている。生物はなぜneoteny化するか。人類はもしも内部的・外部的天敵が現れなければいかに進化すべきか。人間の毛髪は如何に淘汰されて来たか。

工学

電気コードを消す方法。

2007年12月18日

政治訓

我々は民主主義の煽動的衆愚政治化傾向――各種の詭弁芸能人が公職汚染を始めている厳前たる事実――を踏まえて、代議貴族院を創設する意志がなければならぬ。
現状の侭では各地方知事が既にそのような煽動政治の犠牲になった様に、中央政府までやがて芸能人が支配し、その実態を空洞化させてしまうだろう。
UKの制度を参照せよ。

情報学

定理:人間は自らに理解しえる情報しか求めない。
∴世界は想像力の限り。

2007年12月17日

創造

人間は宇宙を研究・解釈・改造しうるが、創造できない。

2007年12月16日

宇宙と文明

宇宙は自体が目的。そのあらゆる性質には他の理由がない。
 誰しも自らの悟性を使って知識を構成する。我々自身が学びうるのはcategoryを構想力に従って自由に委せた世界の整理法だけだ。
 悟性は我々の力というよりは我々に与えられた恩恵と云われる。要するに人類の知能は世界を理解するよう努めうるが、結局その原理を知り得ない。我々は信じる事においてしか原理の因果を知る由もなく、ただ合理神学としてその詳細を研究しうるだけ。
 数学は合理神学、自然科学は自然神学、社会学は社会神学と言い換えうる。カントが考えた如くこれらは道徳神学たる哲学の予備学の用を担いうる。
 芸術は神学を応用する技術。我々が望みうるのは再創造の自由に過ぎない。
 精神は精神性を持つ。宗教は精神性を信仰へ導く。我々は宗教を通じて互いへの信仰を通わせる。人格・知識・判断も宗教を通じて無償交換形式を践む。
 政治とはある信念の実践でもあるだろう。我々は当代の信仰形態を通じてのみ説明ある政治を図りうる。しかしこの批判的な改革には哲学が必要。是政者は哲学者の批判を受容して絶えず政治を時代に適合させなければならない。
 経済とは技術的な文明再創造だろう。我々は学術と政治の両面を経済的に折衷しうる。経済家を通じて我々は文明建設を芸術化しうるだろう。

果かなし

風もなく気づけば果かなき落ち葉かな

2007年12月15日

段ボール入り肉饅店事件

秋葉原にて中国を揶踰する段ボール肉饅頭店を開きし記録あり。名を毬琳と云う。同店広報曰く食品の安全を周知する目標なりと。肉饅頭を段ボールに入れて販売し、先日の中国における肉饅頭への段ボール混入偽装事件を踏襲した悪ふざけに近し。顰蹙は、かの店員に軍人風制服を着せる醜態なり。この事態を概観せし良心深き中国人民の憤りを推して知るべし。

医学又は人体学

問題集。感情と理性はいかに脳内を分担しているか。脳幹と大脳新皮質の関係は。右脳と左脳の関係、なぜ人間は右利きを標準にしたか。

2007年12月14日

ウェブ倫理法案

インターネット空間の無法性を便宜的に回避しその倫理を確立に向けるには先ず個人ID制度を各国が主体になって構築しなければならない。いきなり実名制度へ移行するのは少なくとも日本の現代民度では不可能である。例えば内部告発などに萎縮効果を誘ってしまうだろう。誰がどの動きをしているのかを国が把握してしまうことへの懸念は規制法として責任分担を民間に任せることで拭いうる。司法が担うのは単に法律違反者の処罰である。つまり、個人ID制度、いわゆるSNS・ソーシャルネットワーキングサービスを採用しない、匿名掲示板型サイトを漸次処罰して行く方針が現実的である。
 猥褻物を始めとする各種の悪徳ページへの未成年者の閲覧を防止するには、青少年保護法の規制強化が必要である。例えば未成年者も閲覧できる状態でアダルトサイトを扱うページの開設者を誘った会社への具体的な罰則を強化し、現実に警察庁が絶えず取締る事だ。公共の福祉を害する当該犯罪者のみならず、この様な悪業を幇助した業者にも逮捕監禁以上の罰則を設ければ氾濫だけは治まる。これらの完全駆除には別の方策が必要であって、具体的には最低でも地域自治体ごと発信者の個人を特定周知できるSNSを次第に公論かつ構築し、悪人のブラックリストを全世界市民公開するしかない。それに伴い各種のカフェなどのネット使用に際して国民番号入力を条例義務付けさせる必然を負う。民度自体が如何に向上しても悪人、愚者は世間衆目が爪弾きする以外に根絶方法はないのだから。
 警察庁は定期的にプロバイダーを監査し、もしも未成年者保持の携帯型電子機器から年齢認証を破って侵入した記録が発見できれば、その度ごとに、当該青少年を補導し、また当該企業には更に周知処罰を与えるべきである。又、市民間危機意識を向上させる為に、フィルタリング適用なしの回線を家庭に設置している未成年保護者へは国及び自治体からの警告通知を与え、これがプロバイダー検査の結果改善されなかった場合、この不良保護者へは教育基本法および憲法に示す教育の義務に反する悪業として処罰を加えるべきである。具体的には最低限、プロバイダー使用料を超えた罰金刑以上が必要である。
 これらを補佐する意味で警視庁にE-mailを含む通報窓口を設置し、各種の違法行為は発見され次第公告される様にならなければならない。

インターネット批判

インターネットは未開の土地に築かれ始めた雑然とした戸棚の様なもので、そこに常に世界中の真実があるとは限らず、単に情報源の一握に過ぎない。我々はWorld Wide Web自体を情報媒体としてのみ用いうるのであり、決して知識の一元化を目指してはならない。
 バベルの崩れた真意が文化の多声主義的本性に基づくと気づかぬ迄も、我々にはいつでも自らの持ち合わせの母語によって真理へと一歩ずつ近づくしか道はなかった。
 我々にとって新たな道具の一種である電子情報機器は、それが現実性の傍流でしかありえないことを絶えず意識してこそ役立つ。

道州制度論から地方制度論へ

巷に道州制の清談がやかましいが、東京のみを分離した「地方分権の強化」という本義に遡れば現在の地方区分をそのまま、新たな行政区分として導入すれば良い。

 すなわち、北海道・東北・関東・東京・中部・関西・中国・四国・九州・沖縄である。そして州などと言う外国制度に紛らわしい模倣の名称をやめ、たんに地方と名乗ればいい。近代整備の基礎である都道府県は維持したまま、各地方の主要都市に、新たな「地方名の庁」を位置づければいい。例えば関東庁とか関西庁とかいうふうに。それらは現行の各地方都市に分権性を強化するだけで済むので無駄な経費も要らない。
 各地方庁の統括役は首都に置いた「地方省」が司ればいい。

 これらの既存の地方性というのは、風土に基づいて国民にもう定着しているものであって、わざわざ地方分権強化という大原則への国民全員の合意を求める必要すらなく、一言話せばほぼ直観的に分割方法の共鳴が十分得られるだろう。
 官民両方に無理な合併を誘う説が流布しているが、それが姿を変えた共産制度の強要でないと言うのならはじめから「経済格差はなければならない」のだ。よって各種の経済力に従った等分割案は周知一目でマルクスの亡霊として破棄されるべきだ。
 各県各市町村には彼らなりの風土産業特性が存在するのであって、単なる都市化が目的ではない。健全な文明発展競争を求めるのならGDPのような安直な経済力で分類するのではなく、各地方の文化個性を尊重すべきである。文化は飽くまで自律を要求する。それは国家のみならず地方自治においても同様である。現行の地方区分は自体が風土に基づく自然なものであり、それだけみずからの長所を活かした成長への改造がしやすいだろう。

2007年12月13日

貴族論

ソンビに比べた侍の懸隔は経済や商業とは一切の関係を持たない権力の自立だった。賤貨思想は武士が両班的独占貴族化するのを防いだ歴史的功績がある。

 対外的危機に及んでも李子朝鮮の支配階級に革新性が現れなかったのは単に、権力集中の弊害に由るだろう。

義務

いかなる命も大義に殉ずる自由の前では無に等しい、義務とは普遍的人格の当為。

現代国家論

現代人を感化するには民族国家・Nation stateを単位にするがいい。
 というのはglobalismのさなかにあって直接的な利害は彼らが国際社会に放り出される時にこそ、明らかに発生してくるからだ。甘えは国際社会には全く通用せず自文化中心主義は死の思想でしかない。
 それは日本人が太平洋戦争で神風特攻をも辞さぬ覚悟で戦い抜く理由が自負心であることを見抜けなかった連合国が、その間接統治機関において安直に自文化を移植しようとして君主を人間化せしめるという恥辱を与えてしまった結果、原因不明の競争力格差に不当とも感じられるほど極めて長い期間、日本人の間から白人不信を拭い去れなくなる事に例えられる。自負を以てnationaltyの根幹とする民族にとっては、単に名誉ある地位以外には何らの理由もない戦争でさえも、自由なる欧米的理念以上の大義となる事を彼らは理解しないからだ。
 天皇様は日本人にとっては元来、民族的神格に他ならない。「宗教国家としての日本」は実践的政治の為にではなく、現実にそれとは切り放された宗教的崇拝の理念として、天の皇・Heaven’s Kingつまりあらひとがみを血族連体の頂きへ祭って来た。ヤマトの民衆は伝統的に天皇様の生活や姿ばかりか、現実的存在をも知らぬ侭に、そのすみかたる神棚を各実家に奉り上げ神社には御神体たる自らを映し出すまことの鏡をうやまって暮らして来たのだった。彼らが仰ぐのは他でもなく、自らの血統だからである。幾ら外人が迫害を加えても日本人血統が一員でも地上に残存するかぎり天皇家はなんら解消不可能であり、ひとえにその暗喩でしかない。
 日本人にとって、唯一無二の神様が人間の全能性へ向かう当為である限り、諸形而上宗教からの忠告を一旦留保してすらも国家統合の象徴像としての天皇は永久に神と等価なのである。従ってその人間と同等視させるが如き誤解を招き易い報道は日本人民衆みずから慎むべきであり、同様に飽くまでもこの世の者ならぬ神格として我々みずからが心の底で常々仰ぎ、全能性の根源因として有り難い博愛のいつくしみと共に再生させる信仰の最終目的でなければならない。
 日本人自身は日本人の名を自ら択ぶ限り、いずれもみな至高の君を意味する自らの皇統以外の為には、死ぬ理由をなんら持ち得ない。日本人同士はどこでいつなんどきも、何らかの知的奇形を宿命された種的偶然に在らぬ限り国家宗族として、自らの国内にあるあらゆる人格関係を神格的皇統の最高次にまで全治しうるものだ。これを全国一家と呼ぶ。

 文明建設に従う文化の前提性を理解しない覇権気取りの裸の王様とは、邪教を奉じる外敵への徹底抗戦を旨とするイスラム諸国へ安易な内政干渉を仕掛けた国家群が、永久に終わらない戦争状態に巻き込まれても果たして、誰にも責任転嫁できない現代的自由主義とやらの醜態に等しい。
 文化は民族国家を単位としてのみ、その最大限の発展を魅せるものである。決して国際化そのものが風紀を向上させるのでもないし、大小の連合体も地球一家の有り様が「事実上」諸主要国の軍事主権委譲によって達成される迄は、ただの契約関係に過ぎない。それはいつ破棄されるとも公平裁判の余地がない不安定な「国家的信用創造」に頼る。その喩えの如く、国際通貨がそのまま、各民族国家の経済的実威を示すのに同じ半自然・半開化の無期限留保が現代国際の常態なのである。

 我々はinternationalismについて、民族国家単位の多声秩序を抜きにしては全く語れないだろう。国際連合は遅かれ早かれ多民族主義の国家を揚棄する。中央政府による国内統一が主権譲渡の前提になるのは明らかであるから。これを一国一族の原則と呼びえるだろう。逆に言えば多民族国家を主張する政体のもとでは、止むべくもない国内利害の対立によって、主権委譲の合意ですら覚束ない。このような国家は自らが頻発させる民族紛争からの反省によって、統括血族を意識しうる最小社会単位まで繰り返し分裂を余儀なくされるであろう。植民地に定住化した移民や軍事併合を経た帰化民についても同様の原則から自由にはなりきれない。人々は誰からも強制されず、自らの属したnationalityを国の名前によって自己選択しなければならない。それが世界市民の社会へと参加する資格であるからには。
 Nation stateとは諸国連体の政治統領が、全員の自主的合意に基づいてのみ正統である。公共政・貴族政・王政はいずれも民族国家を興隆せしめる手段でしかなく、また文化の条件特性に基づいて適宜使い分けるべきものだ。

 我らはフランシス・フクヤマを批判して自由民主主義の終焉を誇る事はできないし、例えば貧困を救済できぬ以上文化的な究極体制であるとみなすことすらもない。それはとある絶対君主のもののあわれな詠歌に過ぎない、「此の世をぞ我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば」。驕れる強者は久しからず、政体循環説に基づき、今より福祉的善を体現する新たな秩序へと移り変わる。生物に比類したいけとし国家にとって重要なのは勝利ではなく、適応である。

2007年12月12日

新字方針

無理のある現代中文字を採用するより、漢字の行書体を新たな略字として採用した方がずっと文化的である。

 系統の維持と画数の省略を兼ねた幾つかの「型」を用いて新常用字をまとめねばならない。その様な新常用字は再びword processorに落として電子mediaに流通させるべきだ。

2007年12月11日

初めて見た景色がもう直ぐ消えて行く。
誰もが時間に追われて死ぬだけの話。
美しい人。だけど、誰も本当の美術には触れられない。
人々の波、波、波。やがては誰もかもが時代の現象になって海へと去る。
混沌は重さを増しながら段々と広がって、最後の日を待ち続ける。
できる限り慎重に生きようとするから、何一つとして記憶は残らず。
彼らは皆が文明の歯車になって消費された。
欲望には結論も無く、大量の民族を転がして行くだけだ。
最後には何もかもが混沌の道具になった。
最後には何もかもが混沌の道具になって消えた。
どれだけ昔の思い出も単なる混沌の道具になって消えてしまった。
初めて見た景色がもう直ぐ消えて行く。
どうせ泣くだけの力も残っていないのだが。
人間には、どんな自由も残っていなかった。
後に残されたのは美しい戦争の痕跡。
だが、君の記憶は消え去った後だ。

2007年12月9日

医学

問い。人体が爪を生産する仕組みを調べよ。爪母にはいかなる遺伝子配列があるか。爪母細胞に爪ケラチンの構成分であるアミノ酸を補充すると生産が促進される、という実験あり。毛母細胞との関連、いかに血液成分を髪や爪まで細胞は加工するか。

言語文化論

知識人は幾ら複雑な文字概念を利用しても可なり。一般に読ませる必要もない専門書内にては知識を求める者だけが理解しうる学術語を自在に駆使して、毫も余す用なし。漢字かみくだきは一般書籍における流通の便利にて、専門書の用例にはどれだけ古籍のどれだけ難解な字を多用しても概念自体の理解が深まる方がずっと良い。
 薄めとにつめの濃淡に幅があればあるほど語有の表現力は高まる・蠹魚の懐。最古典から最新聞までを貫く文脈を游ぐのは一匹の聖賢に他あるまじ。カントが『純粋理性批判』の冒頭に曰く、古義は造語より賢明なりと。至言なり。孔子は述べて作らずと。文学聖書とは古今東西の真理編纂なり。
 流行表現のかみくだかれた軽快は時代感覚を伝え、古典表現の重厚厳格は文化核心を深む。両方の折衷が言語文化ならん。

2007年12月8日

仮名の起源

897年(寛平9)頃の宇多天皇宸翰『周易抄』に、訓注にひらがな、傍訓にカタカナが使われている、という記事あり。仮名用法の発祥を知る資料。

南蛮文化批判

現代衆度において阿婆擦れを廃絶するのは不可能なり。唯、肝要なるはそれらを汚き卑人として、飽くまで世間の後ろ指の的とすべき一条なり。先進諸国の情勢と途上国の両方を鑑識せよ。どちらの風紀が優れて美たるかを問え。
 遊女は謂わば半開の世に狂った毒蝮を飼うに等しく、性病による悪徳の警告役なり。これらは人権にて最低度以外のいかなる尊重にも価せぬ人間の悪魔なり。悪魔を仲間にする者も遂には幸福になりえず。一切の口利きも汚れの原因となるのは思想が言動で伝染する以上当然なり。


 神は道徳を利得の原理と為されし、この原理に背くものは遅かれ早かれ淘汰さる。

 悪徳に憑かれし男子が死期を早めるのは自然なり。多妻の途上国あれどその地にては遂に近代文明を自主昇華することあたわず。いずれもみな不徳の結果なり。精力を無駄に費やすは不経済にて単に自業自得の階級没落に終わるのみ。
 精力節約の為には高雅なる方法を択んで隠徳を積むに如かず。有閑の学問芸術は最善の気晴らしにて、sportsへの昇華は心身を健全に鍛える。文明は人類自体を進化させるに非ず、人間社会を進化させるなり。服を剥ぎ言語を奪い社会体制を破壊すれば現代人も原始人類とほぼ同じ有り様にて、地獄を好まぬ理性ある我々が直臨むべくは人間社会の高尚にあり。
 阿婆擦れ地獄界の隠蔽解消はこの第一歩にて、あたかも害虫の巣ごと人間社会前面から見えないところへ押しやる方便なり。その根絶は人類自体が哺乳類から進化せぬ限りほぼ不可なり。可能なるは人間社会からの駆除に手を尽くす漸進努力のみ。

 未来には今より遥かに美しい文明機構が圧倒的膨大になり、そのような極小な醜態自体が人目に触れる事も殆どなくなり、終には獣類の過去として図書館の奥で埃を積んだ古書の一文字以外において全く忘れ去られるであろう。

漢字のかみくだき

福沢『文字之教』端書に曰く、「日本人にはかなもじありしも借りた漢字が流通する慣習ありてこれは一朝一夕にては廃止できない。なれば未来に漢字を廃する為に準備あるべし。これが「なるだけむづかしい文字を用いない」事、即ち漢字制限なり」、と。

 誠に卓見なれど一方よりみれば必ずしも善ならず。漢字は日本語を要簡にしたる便宜、との一般説あり。例えばハングルに比べてカナモジは優るとも劣らず表音性に特化した文字なり。これらは文字に非ず、むしろ発音記号と呼ぶべきものと解せよ。
 他方、英語にてもラテン語においても人々は「文」を表意により解読す。もし英文を発音記号のみで書けば果たして何人が黙読に便利を感ずるであろう。

 言語は言文交響の理想に向かって進化すべきものなり。『文字之教』の端書に続けて曰く、「ノボルという言葉を昇る・登る・上るetc.様々に書き分けてしまわず、動詞はやまとことばで直書きすべし」と。
 これは一面にては誤りなり。筆画の僅かな違いにて文面にriseとclimbとgo upとを区別可能なのは寧ろ利点なり。口語中心主義のインド・ヨーロッパ言語に対して象形性を保存したる漢字はより文語中心主義的なり。口と書けばmouseとかoralとかより簡易にして利便なのは明らかにて、コウとかくちとか言うのは更に簡単なり。いいかえれば、漢字の表意性は極めて便利な道具なり。これを安易に棄てる民族道理はなし。
 日常にて漢語も用いる日本人はしばしば文字を引き出して意味を確認す。例えば名前を口頭で伝えるとき分かりやすい別の概念を引き合いに出す。諭吉のゆは、ことばに出して言うのヘンで輸入のゆのつくりで、きちは吉野屋のキチです、など。これは日本語において表音と表意の組み換えがalphabetとEnglishのそれより複合的な事を意味するのみ。而して思考にも微積分の便利あるべし。便利と弁理士のベンリは同じbenri内に意味を多重抽象化なり。これらの分別には労を要せず、自然淘汰に委せるべし。ベンリが不便なら理弁士が用いられる。重要なるは繁雑な漢字の更なる人為淘汰なり。
 漢字において最も厄介なのはむしろ複雑すぎる筆画のみ。

 現代中文の簡体字は旧来の利点なる表意性を犠牲にしても表音化を進む結果にて、漢字文明の本質を損なうものとしてなんら尊重に値せず。歩と戊とに分解しうる歳より漢字史的改変ありし國を先に略するべき事、二度手間は却って漢字の改悪なり。現代中文はいずれ淘汰さるべき歪んだ俗字のあつまりにていずれのたみも文明摂取は論外なり。
 筆画省略の良策は、常用漢字に対するさらに便利な「使い方」に求められるべし。近い将来に漢字数は1000を超えずともその枠内で工夫を凝らし、現状より神妙な表現が可能になるべし。その使い方とは、「表意を損わぬ限り簡明な漢字を択ぶ」文化慣習なり。かみくだき、難解を噛み砕きて和らぎの風をもたらすべし。例えば選ぶと択ぶは代替すべし。語彙は語集にても賄うべし。懺悔は慙悔にて、羞恥は恥に恥じるの動詞義あるゆえ羞なる動詞的な語義の重なりを避けて無恥にて通用すべし。無知と弁じる為にムハジと発音し、重箱湯桶音訓も自由に用いるべし。シュウチの代わりにムハジと言えば馬鹿な溺婚夫婦にも一応通じ不徳の自業自得を促すべし。
 これらは和漢の伝統書籍と突如の断絶を防ぐ文化法と考うべし。


 福沢の指南したる文明の太平は遥かに先にて現状にてはあたかもキリストの説きたる神の国、カントの説きたる目的の王国に等しく、たんに当為として個々人かたく信じるしかできず。現代の混沌に等しき醜悪たる地獄沙汰の打開は自身の手にしか不可なり。漢字制限もかみくだきも一段落にしか過ぎず。

2007年12月7日

カタカナの洗練

字体を普遍化するにはgeometricalな合理化が必修である。
 未来の片仮名は、容易に「直線・直角・45°斜め線」の極めて単純な三要素へと字体を宇宙化できるだろう。

 もし日本語が完全に洗練の極度を達すれば、寧ろカタカナ表記を主に他の要素を限りなくminimum化しうるだろう。その様な摂取と淘汰を絶えず繰り返して和風昇華を極めた日本語体系は、地球文明消化の審美的総合として、地球文明語の宇宙標準型にさえ成りうるだろう。
 こうしてrecreateされた地球のカタカナにおいては、我々自身が有する発音のうち相当数はよりsimpleな少数音へ統合されさえするだろう。例えば濁音・半濁音・促音・拗音・小字・長音らは必要に応じて清音已に省略され、東西古語引用も創造も容易に簡略化される。よって、地球万人が未来の日本語を自ら地球語として採用する事は自然になるかも知れない。文明archive性は日本語の圧倒的なoriginalityと考えられる。

言語論

既存日本語の長所。
・各世界文明最高潮の源流に忠実な文化保存、よって、外来語の安易な浸蝕を許さぬ文字分別を示す。
・言文交響の理想に向けて各種仮名を隠された発音記号に用いる賢明、表音と表意の調和度を高める民族日常の工夫。
・Alphabetより純粋表音文字体系をしかも二種類保持している事、1音1字発音記号の日用によるnativeの文字学習し易さ。

 欠点。
・例えば漢字に比べて草書体である限り、平仮名は格式を持ち得ない。

 この欠点解消の為には、我々は片仮名性を誇持して然るべきだろう。片仮名は漢字の省略体であり草書ではないので、意図すれば「永字六法」を援用し楷書漢字同等に格式化できる。言い換えれば、審美的に評して、漢字草書たる平仮名は読み書きし易さに最適化された文字だが、漢字省略たる片仮名は格好に最適化された文字だからだ。
 よって文字に単なる美意識性が多用されている。例えばコという文字は記号に限りなく近い。それは己の省略体として、草書体の「こ」に比べて、単なる審美的な処理方法に基づくからだ。画数の丁寧さや筆運びの潔さ、及び万葉仮名として漢字に併置しても思わず見間違える格式を持つのは、本格的男手であると認めざるを得ない。人工形態における直線や直角への要素統括は個性の入り込む余地を退け、一途に普遍化を志向する。これはalphabetにおける筆記体と、大文字の関係に似ている。片仮名は和文の大文字として働く。
 いずれ我々自身、在来のもとの言葉がいかに外来語では表現不可能な構造定義を限りなく留めるか悟るだろう。例えばアワレはいかなる他の言語にも表現できない。従って、伝統ある言葉は外来語以上に価値ある格式語として尊重すべきを知るだろう。

 日本語は、
真、片仮名
行、外来語真名
草、平仮名
という三者の調和を目指して独創的な文化を育む。

 Roma字表記は我々にとってインド・ヨーロッパ経由の外来語を表意的に消化し易くするが故に貴く、自体が我々にとって一音一字の格式片仮名以上に美しく価値ある文字とは考えづらい。従って、英語由来の言葉への日本語内発音記号にはroma字表記を用いて行くをより良しと為す。例えばEnglishには(ingulisshu)という発音表記が適当する。Ratin語とは精密な表音体系であるから、英語の歪みを日本人から正すRatin語学にも繋がる。少なくとも漢語化しなかった分はそのような手間をかけても差異化する事で、複数文字兼用の多様を和文内部で最大限活かし、未来の適応土壌に再び余裕を開いておく事になるだろう。既に例えば片仮名表記の和製英語としてパソコンという言葉が浸蝕を及ぼしているが、pasoconと書くだけでぱそこんと書き間違う幼稚な混同を防ぎうる訳だ。パソコンとはpersonal computerの略称だが、PC(piicii)に対してより表意的な用法と呼びうるようなラテン文化的な国際性を後々迄まというる。
 我々はRoma字発音表意を近い将来、漢文由来語へのカタカナ記号に対する英語由来のローマ字記号として用いるべきであるだろう。というのは、漢語と英語を日本語内部で見分ける事は単に混ぜるより地球文化的だから。

漢字学

白川漢字学の定説化は避けられねばならない。
 一人の主観が脱構築不可能な定義になると、民族全体が否応なく、主観に残存せざるを得ない偏見を、白川風に身に着けないとは限らない。従って白川氏を源流とする漢字学は必ずしも国定にすべきではなく、民定の文化であるべきだろう。

 我々は聖書としてではなく、単なる参考の一字引として白川辞書を利用すべきだろう。
 字脈を知りながら全く独創的な用法を発明して良い。知らずに破格しきる事はなかなか困難ではあるが。例えば仁とか道が、和と同じく、そういう温故知新の脱構築字義であった様に。

2007年12月6日

教育文化論

実川真由『受けてみたフィンランドの教育』に曰く、宿題は多くなく普段それほど勉強している風はない。勉強という言葉代わりに「読む」をよく使う。分厚い本を何冊も読むことが要求され、テストではその知識に基づいてエッセイを書かせる。暗記要素は自然に身に着く。英単語帳は無く、歴史年代がテストに出ることもありえない。
 これと比較すれば日本人が中国から輸入した科挙の弊害が、知識学習ならぬ暗記勉強の観念を民に植え付けたことが明らかになる。畏らく我々は科挙型の暗記中心教育を改めるべき分かれ道に立っている。科挙を実際に続けて来た現代中国と、北欧諸国のどちらがより教育大国にふさわしいか、教育関係者自身、思慮判断しなければならない。
 又、初等教育におけるゆとり教育の弊害が叫ばれるが、事実上、朝礼暮改ほどおろかな改良策もない。偏差値教育が科挙の変形でしかなく、欧米を遥かに追い越す成果を挙げるしくみでなかった以上、我々は既存の体制を二度と振り返ってはならず、進む他ない。それには科挙から自由教育へという大枠の維新が必然となる。
 私見では、ゆとり教育の成果は格差の為に働く。格差は義務教育の範囲を出れば必ずしも否定されるべきことですらない。フィンランドよりPISAの劣るイギリスの方が沢山のノーベル賞級の結果、及びコペルニクス的革命を興して来た理由を問われれば、彼らを圧倒的な分業の優等生と見なす他ない。一人の大秀才の出現は一億の凡脳に優る結果をもたらす。
 我々は初等教育においてフィンランドの高平均値に習うべきだろうが、同時に、高等教育へ向かうに連れて徐々に教育寛容度を上げて行き、個々人の優秀格差を肯定する様に導くべきだろう。

2007年12月5日

芸術論

いかなる芸術美も、自然美には及ぶべくもない。天才は神様のお分けになった再創造の力でしかない。我々自身の努力の如何程も、真実の全能たる創造主の前では無力に等しい。人間の万能とは、永遠に偉大なる父上の模倣の努力に過ぎない。我々は神様のお創りになられた無比の傑作たる自然から、単なる未完成の似姿としてみずから、僅かずつ、かの神妙なる御技を習いうるだけだ。抽象とは自然の本質的な模倣である。文明とは神様の御意志を自ら実現せんとする抽象の芸術であるだろう。
 神は畏れ多くも我々にのみ、地球において抽象の才能をお与え下さった。抽象は自然現象を愛でる為に、最大限の工夫を可能にするであろう。全て、神様は我々の才能を通じて、再び自然を作り直す課程を必修とされた。抽象とは、みな自然現象の再現である。芸術家は神様の直弟子である。彼らは理論の真と実践の善とを、技術の美において総合する。芸術教育は人為に反する。神様は愛弟子たる創造者の雛たちを、御自らお育てになるのだから。芸術の成果はあまねく、慈善の為だけにある。人工の創意工夫はあらゆる事物のいつくしみを通じて、神様の博愛を表現しようとするお手伝いでしかありえないのだから。どうしてそれ自体がよろこびである自主奉仕に私利の絡む余地があるだろうか。経済は余分な寄付を拒否する慈悲の道具だから。

医学

問、なぜ魚は生食しても腹を壊さないか。

2007年12月4日

宗教考

世界宗教は人間が育み得た最高度の自発的再分配機能なのは歴史が示す如く明らかであり、その興隆は全て民心を和らげる。
あらゆる権力集中は必然に腐敗を伴うから、政治権力自体には調整的正義の一翼を担うのが限度であり、社会のもう片方の翼には世界宗教が必要となる。

且つ、もし君が、同じ歴史が伴う悲惨な《民族間抗争》にさとければ、一民族中に「複数の世界宗教」を共生と迄は行けずとも最低限住み分けさせて、不毛な原理主義的対立を文化慣習上で未然に解決しておくがいい。
信教の自由のみならず、単なる邪教の市民間監視と、世界宗教団体の行き過ぎによる異教徒迫害への裁判的な禁止[公共の福祉の概念による]を怠るべきではない。

民族の合周縁性

民族共生はuniversalな当為。言語はその民族を最もよく反映する。言語において正にそうである如くに、人間は差異を通じて自らの特性を自覚しうる。

 誰しも全く異質な文化から多くの反省を促される。白人種中心の国家や中国、あるいは日本に於いて京都・大阪・神戸をおもとした関西、奈良、東京や神奈川など、過去の伝統が我執の驕りにまで転化しがちな文化圏、皇帝や天皇、王侯を含むracismに由来した自慢の文化に顕著な自民族中心主義はいずれ、彼ら自身の無反省として世界中から軽蔑の元になる他ない。理性至上主義そのものが自己矛盾を含んだ体系でしかありえず、地球の覇権を目論む連中の偏利を避ける為に多民族による民主革命で人々から打倒されねばならないだろう。

芸術論

芸術は文明環境を洗練させて行く。文芸は彼らの文章を美へ導く。芸術美は個と普遍のより高い調和を目指して永久に続いて行く。自然ある限り、精神はその尽きることない源泉を汲み上げる。芸術美とは自然美の抽象であるだろう。それは崇高と美を調和させる為に導かれる。芸術は普遍文明を目指す限り普遍宗教に限りなく漸近する。

東洋 Orient

1. 琴 Koto
2. 海 Sea
3. 三味線 Syamisen
4. 終り Last

Release date: 2007/12/04

2007年12月3日

台湾における中国からのスパイ型ハッカーへの対策メモ

1. 公務員の危機感啓蒙を行い不審メールは開かせない
2. メールアドレスを名刺に載せず個人情報管理を強化
3. パソコンの不自然を24時間監視

再建理念

衆愚政は自体の内部から救いようがない。現代日本は正にその段階にある。煽動政治が蔓延り、長期に渡る平和で所構わず牝鶏が鳴き、国民の品性は懦弱退廃してしまった。下層労働者のたまり、東京や関西の人間は鬱屈し切って性的放逸にのみ捌け口を見出しつつある。スポーツ奨励の実行が遅れれば遅れるほど、その結果が驚くべき道徳的堕落に陥るのは目に見えており、氷山の一角は既に顕在化している。日本のAmazonにおける、恥ずべき姦淫カテゴリー。あまねく海外に、そのような特筆すべき莫大な市場は存在しない。オタクカルチャーとは大衆退廃文化である。

 日本を救済するには唯一、民政復古に帰するしかない。とはいえ、この奉還は間接民主主義の次段階として現れてくるのであり、決して単なる絶対政への退行ではない。

 我々は維新を最初の外敵をきっかけに果たすことになる。致命的危機感が社会の中の一部の志士に共有された途端、我々の自由主義段階はその役目を終えるだろう。

 我々は新たな階級間を自由に移動可能な貴族制度を、自らの意志と構想力に従って再建しなおすだろう。おそらくはその最高の手本となるのは、イギリスにおける勲章制度だろう。というのは、天皇の国事行為に限っていえば我々は王権の行使を民主的に可能にするからだ。
 学歴社会そのものは既に築かれつつある新たな階級序列なので、適宜利用可能である。現に確立されつつある学位制は、日本国社会にとって事実上、勲章制度の下位に置かれるだろう。

2007年12月1日

社会思想の分類

中道主義は左右にふれない中福祉社会志向を意味し、協会主義は勝手主義にも共産主義にも陥らず利潤や均等より熟練技能の向上を旨とする企業風土を意味し、趣味主義は優れた文明を消化して全く独自の学術次元を再創造する文化姿勢を意味する。

芸術教育論

『判断力批判』に倣い、天才は構想力と悟性との自然が分け賜っためでたい関係たる判断力において芸術の先天的才能であると定義すれば、いつの世のいかなる芸術学校ですら単なる伝統芸能の保存修復にしか役立ちはしない。
 古典や同時代の天才に範例を求めるにせよ、また判断力自体の補足として制作の実例に与かるにせよ、芸術学校は天才を全く教育し得ないばかりか、その様な才能を既成の原則から外れた奇形として排除しさえするだろう。従って、芸術学校は自らが一つの制作規則な天才の所業たる芸術にとっては、害があって益はない。そこでは凡才たる模倣者達を教授の流派に招き入れ伝播する多少あれ集団強制的な師弟制が図られえるに過ぎず、また勢い飛び抜けた天才の芸術は大衆は勿論専門家にも当代に正当な評価を受けることは希であるから、この様な同時代の権威の役に就く方々が一流の歴史的芸術家な事は極めて望みが薄いという状況に行き着くのだし、その様な芸術教育の体制というものは、我々の文明にとっては単なる模擬としての伝統文化の保守的な維持に有効なだけだ。よって芸術に学歴は存在しえない。芸術というものは後天的に知識として学んだところで、その為に必須な自由美に関する制作の規則だけは先天的独創性に待つ他ない。多少あれ教育可能性があるとするならば、いわゆる設計者における付属美制作の訓練、すなわち工学技術者に対する既存の芸術模擬を課程づけることができるに過ぎないだろう。例えば現代、建築という半面において付属美を要求される造形美術分野において、かつて達成された天才的建築家たちの芸術作品を範例として模擬させ、それを仕方なく学的な規則にまで貶めてすら工学教育に伴う必然的不足としての建築術を補わせる、といった方法において。これはやはり流派の伝道であるから、伝統芸能の保守に働くだけである。建築とは用途を審美的に表現する芸術なので、用途に対する計画的対処という学的に習いえる部分に関してのみ、我々は既に技術が失われた古典的実作の模擬をもってその第一の範例としても構わない。しかし現行の技術には新たな工学に埋もれやすい単なる流行の方法が学的なものと術的なものの境をぼかしたまま混在しており、ひとえに学的実例を伴わねばならない充分な模範にはなりえない。具体的には、日本建築が慣習的に手洗いと風呂とを分けて清潔感の具に供するといったことは、古典的日本建築の範例を一度模擬してみることを通じてしか手習い得ないわけだ。そして全く伝統風土に属さない建築作品は文化的な産物ですらなくただ巨大彫刻とみなされるに過ぎないから、建築術の修養には天性の判断力としての天才が不足すればするだけ、建築学からの工学的な補完を半面として必要とする。逆に言うならば、天才的な建築家は殆ど実例を引用することもなく、用途に最適な独創的作品を巧みに科学技術を活用して導き出すことができる。よって、建築学が学校組織で教えられることは一般に凡才の為の工学教育であると考えられ、芸術学校はやはり理念上不要となる。これに対して結局あらゆる建築物を作る際に必須な建築術というものは悟性と構想力とを統括する判断力の先天的才能であり、前例と似た状況が絶えず訪れるわけではない建設現場においていくら沢山の実例を示そうが、凡才にはその制作に伴う付属美を自由美から区別できない以上、まるで教育不可能である。なお、これは俗に、職人達の間で筋がいいとかわるい、また建築批評家たちの間で感覚或いは勘がいいとかわるいという言い方で、学的なものに還元できない術的な能力の判定にも普段から息づくような、先天性を含む判断力である。
 芸術学とは審美批評論を旨とする哲学者たちの仕事であり、芸術学校で教えてよい分際の生業ではない筈。それはコントの基礎科学の分類に倣い社会学内に、歴史学における文化史の一種としてのみ定義されえる。そこにおいてしか哲学者たちの審美論が学的なものとして、科学的につまり歴史に至る積み重ねとして採用される余地はない。
 とすると、我々の文明が芸術学校を学問の府に模して日々築くことは未開な人類が犯した巨業な過ちであって、この様な場所が真実、幾多の芸術家たちをその非模擬性すなわち独創性によって迫害し駄目にし極端な場合淘汰粛清さえしたか計り知れないことは、なんら大学的教育とは無縁の天才達を永らくその古典的模範として来た我々の歴史が証明するところだろう。芸術学校が芸術家にとって自明の義務として栄えた国からはいかなる天才の飛翔も閃けない。よって、各文明国は芸術学校の名義を剥奪し、伝統芸能の学校つまり工芸学校と事実誤認を修正謝罪するべきである。芸術学校を名乗りうる場所は唯一、天才芸術家自身の工房だけだ。まことに単なる伝統芸能の模擬者たちが芸術学歴とやらを厚顔無恥にも堂々公然標傍し、市民社会に自律的な趣味判断の発達を妨げる模擬的な芸能権威化の錯誤を繰り広げるところは混沌迷盲たる野蛮界さながらであり、我々はこのような現状が散見される未文社会に暮らす限り、人為環境の洗練を信条とする品格ある文明国家を主張することは永久に不可能である。天才的芸術が凡才の仕業である模倣とは飽くまで対立する以上、我々は全く、どういう社会的立場からその様な希有な能力の証が現れてくるか、将来にわたり予測するわけには行かないだろう。なぜならば旧来のとうに知られた美学化に堕した規則を外れてのみ、新しい規則を樹立する天才の芸術は華開くから。

フィンランド教育

フィンランドの義務教育が現在の科学潮流内では世界一優れた制度なのは誰の目にも明らかなのだから、我々としてはとりあえず、その文化模倣に努めて然るべきだろう。
 曰く、
1. 小学および中学教員資格を専門課程を経た修士以上に引き上げる。
2. 中央大綱・地方自律を原則づけ教員の自由裁量余地を増強する。
3. 義務教育内で比較・競争を喚起する試験を廃止し落第を禁止する。
 先天的な天才は教育によって産まれるのではないとして、万人共通の義務教育に対する高等教育とは、優等な個性を最大限に尊重し、後天的な秀才群の養生に努めるものである。

国際的遡求処罰の趨勢についての私見

1993年に日本政府が公式な謝罪を見解した歴史から、我々は繰り返し国連総会で自らの公正を発言し直すべきである。というのはある類の反日プロパガンダに隠され、単に国際認知が未だ高くないに過ぎないのだから。

 さらに、極東国際軍事裁判が終わってもなお不当な内政干渉を国家規模で行う連体には手痛い牽制を与えるべきだろう。下院にて我が国害法を可決したオランダ、カナダ、アメリカという国際的な事後法を反省しない連合が居会わせた場に臨んで、単なる貿易関係においてそれらの国々の要請は何ら聴き入れる必要がないだろう。
 我々は再軍備なる意趣返しによってではなく、ODAと対途上国への民間平和活動について両方の世界一となる実績を淡々と、かつ冷静に目指す事で今度のあまりにも不当な干渉に対する国辱的うらみを晴らすべきである。

2007年11月30日

救急の電話番号について

119番は誤認し易く、慌てている緊急時の連絡に、必ずしも適さない。
 救急を連想させる99番、というものが適切だろうと思われる。というのも緊急時には理性が麻痺して深い思考はできず、簡明な「直感的標語」にしか頭が回らないものだから。

 救急・消防を呼ぶ為に誤って警察へつながる110番にかける場合がどれだけ多いか調査しなければならない。また、誤ってかけた場合にすぐ、直接転送が効く様なシステムを警察と救急消防団に設置していなければならない。

2007年11月29日

数学

円周率πの定義。大きさの異なる正円同士の比をa、bとする。aの円周をl、半径をrとしbのそれらを各々l´、r´とすると、aとbは正比例するので
a:b=l:r=l´:r´
ここで
bl=ar
b=ar/l
b/a=r/l同様に
=r´/l´
従って、正円を一般円と考えると、r/l(円周分の半径)の値は一定である。ここで、2r/l(円周分の直径)の値をπ(円周率)と定義する。これはあらゆる大きさの正円に一定の比なので、一般円周率と考えられる。

情報環境に於ける孟母三遷

情報化社会は新種の淘汰環境を敷衍する。誰しも新しい情報の渦から自立し切る訳には行かないから、彼らは単に知性や理性のみならず選択の判断を問われる。
 情報はあまりに莫大で彼らの人生をspoilするには充分な威力。特に若年者は使用制限されなければこの危機に最も曝され易く、大半の隔離環境では退廃に陥り脱出不可能になる。
 彼らは名前を持たない衆愚として匿名環境であらゆる悪業醜態の限りを尽くす。それはインターネットを通じて世界中に同時に知らされる。
 そういう情報退廃の衆愚は地球のあらゆる自由主義の暗部として群れになる。
 無法地帯で悪名高い2ちゃんねるの様な匿名書き込み可能な情報スラムと化した掲示板システムはそういうやくざの溜まり場となり、各国に派生するだろう。
 これらが及ぼす被害、衆愚による人権濫用を最小に食い止めるには、各国主体で市民団体および政府機関を組織し、専ら匿名SNSシステムの虱潰しを徹底的に行うべきだ。掲示板(BBS)開設の条件に国民番号を記載する旨も法規されねばならない。又、悪質な国内サイト自体をネット規制法で国民自身が政治的に監視し直すべき。これがなければ無法仮想空間はあらゆる人権を壊滅し尽くすまで増長を続けるだろう。
 尤に、退廃愚衆そのものは淘汰の自然に過ぎない。この奇形的衆愚の生存率は悪徳のたちから極めて低いのが明らかなので、唯、一般社会はその及ぼす害毒や犯罪行為を未然に予防することに努めればいい。我が子をこのような情報退廃淘汰へ貶めたくない親は次の事に注意すべき。
 パンドラの箱である無法地帯インターネット環境に子息を接続させない為に、パソコン及びケータイを含む新種の情報機器を極めて限られた条件、保護者監視下かつセーフガード内でしか触れさせず、且つ常時オフラインにしておく様、常に気をつけているを得る。これが子息の情報格差に働く事を懸念する人物は、例えば麻薬喫煙が流行した時代に寧ろそれに慣れさせる様に未成年を指導する愚か者に似ている。
 ネット規制法が未成年に対して安全な環境を整備するまで、完全に無法地帯と化している野蛮な不浄環境からはあらゆる未成年を遠ざける工夫を凝らす他ない。孟母三遷から。

天文学

重力は引力と遠心力の合力であり、従って極では最大に赤道上では最小になる。F=GMm/R2(万有引力)と、逆向きf=mRω2cosφ(遠心力)の合力ゆえ。また重力Wを質量mと、重力加速度gで現すと
W=mg
このgは極で約9.83(m/s2)となり赤道上で約9.78(m/s2)となる。言い換えれば単位質量に働く重力は約0.05(m/s2)違う。また遠心力は中心距離に比例するので、地球上のより高い地点で重力は弱まる。円運動の半径rはF=mrω2(遠心力)において質量m角速度ω2に比例する。我々はこれを高度補正として知る。その値は約3.086×10-16(m/s2)。

家計訓

いかなる金も使い道を誤れば害となる。

稼ぐに追い着く貧乏は浪費家の悪友である。

節制は性的放逸をも退治する。
愚かな連中は失われゆく快楽のために折角の身代を消費して、常に忙殺されている。
戒めるべきは無駄使いであり、経世済民的投資ではない。

慈善は最高の娯楽である。

風の歌

秋の香に溶けて聞こえる風の歌

2007年11月28日

国内食糧政策

日本は2007年現在蛋白質源である魚・肉・大豆を大部分輸入に依存しており、その結果世界貿易に恐慌が起こり円を除くブロックが形成された場合、先進国中で唯一国内食糧にすら困窮する危険がある。
 この危険を回避するには蛋白質源の確保の為に政府が少なくとも魚・肉・大豆のどれかの産業に価格保証を与え保護し、国内自給率を先進国水準まで向上しておかなければならない。特に漁業が日本人の健康寿命の増進の為にも、保護産業に適している。官民揃って我々は中国産の国際的不信感に対応して、安物の魚を忌避するべきである。また大豆農家については自給分の味噌や豆腐や納豆など日々の和食材料を生産可能な程度には、同様な養生監視が必須だろう。
 国産の肉類は低価格の輸入ものに対して一途な高級化を志向することで住み分けし、貿易自由化に伴う壊滅的打撃を免れるだろう。
 国産肉類には各生産地の農協によるブランドづけが有効に働く。生産地名度を徹底して上げることで普段は嗜好品として、緊急時には貴重な蛋白質源として国民の安心に働くことができる。

凡愚と覚悟

いかなる凡人も凡庸性が適応的な為に凡人に甘んじる。というのは、そのような凡人には天性の才能が欠けているし、後天的努力に対して限度以上に行うだけの抑圧度を持たないから、分相応の地位を戴いて安住する。
 輪廻を解脱し得たと考える人は運命の流れと称されるところのものに殉じる覚悟にある。というのは、このような境涯では因果律の為に自分の才能を最大限に発揮するような気負い、覚悟が生まれるのだから。

2007年11月27日

知的営為

愚者の群れにあっては如何なる知的営為も一向に価値を持たない。未来人は我々のおろかしさを憐れむ。

数学

-1×(-1)=+1について。
1×2=2
2-1=1, 3-1=2だから
(2-1)×(3-1)=2…①
分配法則
(a-b)×(c-b)=ac-ab-bc-b2=ac-b(a+c)-b2
よって、①より
2×3-1(2+3)+(-1)2=6-1×5+(-1)2=6-5+(-1)2
よって1+(-1)2…②
これを=2にするには(-1)2つまり-1×(-1)を-のまま定義すると矛盾する。従って、
1+(-1)2=2

2007年11月26日

文芸論

真善美の調和した文書は聖書と呼ばれる。如何なる科学書、哲学書、文学書もこの為の過程だった。

2007年11月25日

捕鯨批判

食用にする民族にとっても鯨類摂取の蛋白質は極力、他のものに代替するのが現代国際基準に照らして正しい。生態系の比較的上位にある生物を大量捕獲する野蛮は戒めねばならない。

 我々の国際ルールを遵守した研究は捕鯨の為ではなく、全く逆に鯨の養生の為に働くもの。如何なる生物も闇雲に放置すれば増加する訳ではなく、寧ろ餌を含む周辺環境の適性が必須となる。

2007年11月24日

現代経済学

保護関税説。比較生産費説は保護関税の国連導入により補完される。その値はハンディキャップとして充分なものへと将来の国連経済庁により調整される。如何なる商品も相互文化の意向に基づいて取引されるべきで、武力威嚇が背後に控えていては真の互恵公平にならない。例えば単一作物の農業国の工業化意向を貿易平衡上で妨げる様なら、その先進国は当方を間接植民地として搾取するに過ぎない。そしてそこに生ずる貿易差額による不公平はいずれ先進国にも不況として巡るのだ。如何なる国も自給自足を完成させる事は出来ないのだから。全ての国家は生産消費の最適配分のため連帯しなければならない。かつて世界大戦なる最悪の事態は、事実、巨大な経済的不均衡の揺り戻しとして起きた。自助経済発展をあまり期待できない途上国は、自らの国家主権を国際連合へ自主譲渡することで保護関税圏内へ参加できるだろう。それはテロリズムや社会主義政権に訴えない、唯一の正当な覇権への抵抗となる。

料理論

美食には節度がなければならない。その目的は健康の増進であり、決して嗜好そのものではない。偏食家が如何に主張しようと美食家とは呼べないのだから。

 優れた舌は食材が広く、豊かな食糧事情の安定環境下でのみ発達する。そのような環境からは多くの世界料理が誕生する。

 如何なる料理も文化活動の仕方を含んでのみ発展する。
 出来合いの輸入ではなく、美味しい料理の方法を素材ごと学ぶ努力を通じて、料理家は新たな美食を創作する契機をつける。そして真に芸術的な創作料理には実りも大きい。如何なる芸術も合理性によって審美される。従って優れた料理は人類の健康増進に寄与するところ多大である。

 美味、即ち舌の趣味は健康的な民族ほど優れた感覚である。不味い物を避けること脱兎の如く、栄養ある料理に長けることお袋の如くあってこそ美食家の名を冠するに足る。

 究極の美食は淡白に趣く。健康増進の為に必要充分な味付けは自然食材を慈悲感謝を以て尊重するような、さりげのないもの。真の美食民族は長寿である。

2007年11月23日

信仰

如何なる罪も、神様の前に洗い浚い告白し、心の底から悔い改めてこそ償いの道が拓けるであろう。

神様は何事をもお見透かし。
隠し事は皆、裁かれる。自ら告白すれば神様は喜んで下さる。

2007年11月22日

学習論

如何なる知識も理解されてこそ定着する。理解されない記憶は短期に消え去る。故に、科学者を志す者は世界体系を理解する事に努めるべきで闇雲な暗記が効率ではない。これは諺に急がば回れと云われる。真剣な学習には速さよりも充分な忍耐を要する。如何なる天才もこの原則を踏み越した事はなかった、と明記せよ。暗記は試験勉強の手段である。理解した分を記憶する事は非常に有意義となる。それが博識の謂いである。逆に衒学とからかわれるソフィストは記憶があって理解が無い。俗に云う論語読みの論語知らず。

色彩学或いは光学

色彩はどんな意味を持つ自然界の要素か。我々はそれを視覚的把握を通じた物質化学状態の認識に用いる為に眼球を進化させた。色彩は物質表面の光反射率に依存する。それは表面の状態を知らせる。従って擬態もあり得る。化粧や絵画は装飾を通じた擬態の作為である。網膜の錐体細胞における如何なる要素が色彩感覚を示すかを知るべきである。一説にオプシン蛋白質の反応性が色彩感覚の原色刺激になると云う。その真偽を調べる方法を執る事。もしそうなら如何なる感覚野が存在し各生物で如何に違うか。人間が光の三原色(赤青緑)と絵の具の三原色(赤青黄)とを見分けるのはどうしてか。
 彼らは錐体細胞には青赤緑の蛋白質反応体を持つと仮定して、それらの知覚に比べると物質表面の合成は光の全反射において白、全吸収において黒を示す、つまり光に対する反射度の減退として絵の具は物質表面に作用する道具だ。
 一方で、透明な物質は光を透過するから色彩をもたらさない。又、反射するに当たって透過なものは表面が平滑ならばそこで光を映す。鏡はこの作用をエナメル質の全反射特性を通じて利用したもの。全反射ながら白にならないのは物質表面が平滑な為に光が散乱せず直接反射するから。よって、鏡の表面を細かく傷つけるとそれは白くなる。ステンレスに対する白銀の光沢は同様の現象による。
 真っ白なエナメル質のもの、例えば塩化ビニールと鏡状のもの、例えばステンレスとは如何に光・色彩化学的に異なるか。塩化ビニールは如何に色彩を散乱させるか。ステンレスは如何に色彩を直接反射させるか。その作用の違いを調べる事。
 光学用語。
正反射、鏡面反射…光の直進を反射の法則で尊重する
乱反射…物質表面で光が拡散する
反射の法則…等角で跳ね返す
吸光…物質が光を吸収する現象
銀色はAg原子の集積によるしろがねの輝きをも意味する。金属光沢は如何にして発生するか、又その性質は如何なるものか。金属内部の自由電子と光束とは如何に関係し現象を発するか。

生物学

生命体の起源。なぜ地球では生命体が栄えたか。海水が残る奇跡的距離を通じてのみ、太陽放射を葉緑素へと還元する特異な形態、有機物が発生した、と主張する人達。だが、それは偶発事の次元に過ぎぬ。宇宙が無際限ならあらゆる形態の可能性があるので、太陽系に漸近した場所も無数に発見できる。
 なぜ無機物は化学変化を葉緑素の方向へと導くことになったか、を知らなければならない。それが天恵の理由だから。
光合成化学反応6×CO2+12×H2O→C6H12O6+6×H2O+6×O2
はグルコース(C6H12O6)を生産する。補償点を超えた分が有機物生産となる初源活動である。これは無機物質に対する突然変異の一形態として現れたのが明らかである。言い換えれば、地球の海は以上の反応を創造した。
 では如何なる素材に如何なる技法を加えれば葉緑素は発明可能なのか。

2007年11月21日

日米文化型の考察

アメリカ人はどうして自立を優先するか。フランクリンの代から彼らは成長を早める為に如何なる犠牲も忍んだ。日本人においては成人後も子供に世話するのが自然だし、又子供自身の自立の後にも親孝行は当然とされる。それは成長を急かせない。彼らは民族全体のモラトリアム値を集団的・社会慣習的に構築しようとする。従ってアメリカ人は日本人より成長が早い。アメリカ人は極めて早く成長を要求するが故に、子供にも早く早く自立を勧め、幼い頃から経済的損得感情を人倫に相反しない様に教え込む・pragmatism。その植民地からの独立の焦りが「新しさ」への渇望へ彼らの生活態度を合理化させた。
 対して日本人は成長をなるだけ引き延ばしたがり、幼児には商売へ近寄らせない。どころか、彼らは子供に買い物させることすら何かしら卑しい家庭の事柄として嫌う。日本人はこうしてまるで幼子のような成人を求め、そのような汚れのない、世間知らずの若者を理想として様々な浮世の荒浪から長く、隔離して成長させようとする。まるで抹茶に陽射しを当てずカテキン合成を阻害しテアニン成分を抽出する様に。日本人はそうして幼形成熟・neotenyな人物を理想として育む。
 極度に幼児的な女性は可愛い子振りっ子と呼ばれ成熟した女性から悲惨な迫害や排斥に遭う。又、男性においては餓鬼と呼ばれ様々な社会的差別に遭う。にも関わらず、彼らにとってそういうネオテニー化した成人こそが常に目指されるべき理想像であり、純粋な希望の象徴となる。つまり大多数の凡人はそのような貴重な達成に預かった人物を嫉妬しているに過ぎない。

 日本人の教育哲学は全くプラグマティズムとは相反していると考えても大きな間違いはない。日本人は、アメリカ人とは違い、競争を殊更避ける。競争させようとすると彼らは極端な場合、互いに虐めを始め、一定の対象へ敵意を集中させ自らの集団内の相互平等を維持させようとさえする。日本人はしばし成功のためではなく平和のために努力する。こうして彼らは自ら目立つことを避けるべく神経を尖らせた深慮を凝らす。プラグマティックな個人主義は競争における成果を和合よりも優先させる思想故。

 日本人は自立をさほど立派な事と考えていない。だから成人後も親と同居したり資金援助を受けたりするのが不自然ではなく、大半の人々が親の住む家(彼らは実家と呼ぶ)に頻繁に帰郷して家族会を開く。このような家族会の慣習を彼らは帰省ラッシュと呼ぶ。ある種の国民的祝日の前後には、Japan Railwaysの駅はこのような民族事業に熱心な人々でごったがえす。自ら労をねぎらうべき休暇にそういう仕事を詰め込んで不合理とも覚えない人々をクールな眼差しで哀れむ人種は希である。日本では、最大多数の意見に従うのが、たとえそれが明らかにどんなに誤った偏見であっても、常識とされてしまう。こうして彼ら固有の悲劇は集団生活を何より好む彼ら自身の心情に合致して、様々な窒息しそうに狭い空間に蟻のような行列を作る文化現象をあちこちで発生させる。

 アメリカ人は連邦自立のため余りにも急速な成長を余儀なくされたので、子女に最小のモラトリアムしか与えない慣習を作り上げた。こうして彼らは高潔とか貞節という概念を殆ど持たない場合が多い。そういうものは野暮だと考えている。彼らは性的には野蛮であり、むしろ純潔をなるだけ早く破戒する様に努める。
 その結果彼らの文化は性的に際限もなく放縦となり、エイズの危機に大多数の人間を晒している。そして本の一部の変わり者以外は大部分が、早くにビジネス界の片隅から利益のお零れとそれ相応の自尊心を手に入れようと躍起になって競争し出す。
 従って、彼らアメリカ人の間では、最も魅力的な男性は野獣のように豪胆であらゆる事に万能なスーパーマンでなければならず、そういう完璧な男性像を虚構するべく彼らは様々な画策を図る。何としてでもアイビーリーグに入り込む為には世襲や賄賂も公然と行われ、制度化されさえする。そのような環境ではライ麦畑のキャッチャー志望者は一人残らず排除されざるを得ない。

 日本人はこれに対して純潔を何より大切にする伝統を持つ。彼らの殆どは皇族などの専制権力者、富裕な商人、下層民衆という商業圏の影響下にあった例外を除いて、あらゆる時代を通じて純潔の模範だった。彼らは汚れを嫌う。常に社会的差別と隔離のもとに存在する遊女や痴漢を除いて、日本人は家庭を恋愛より優先する。従って、彼らにとって恋愛は何かしら忌むべき邪な事として生活の隅に追いやられる。中流以上の日本人は家庭生活内で恋愛に関連する事柄をタブーにし、なるだけ子女を発情から遠ざける工夫を凝らす。その結果、中流の子供は社会に存在する中流以下の家庭の子供に教示されて初めて、性的な問題に関する知識を得なければならない。従って他の階級とは隔離された上流家庭では一切の性的問題を教えられないまま、子女はあたかもむく犬のように育つ事を期待され、大半は成功する。事実、日本人の社会では性的目覚めが早ければ早いほどその所属する階級は低くなるように巧妙に仕組まれている。下流階級の子女ほど早く恋愛を経験し、早く家庭を築く為に早く経済的自立を求めなければいけなくなる。この結果、彼らは優等生に与えられるあらゆるハンディキャップを剥奪され、素足でレースに出なければならない。その結果彼らの過半は生涯うだつが上がる気配は無いが、同時に子女も早く自立するので教育費の負担もそれほど心配しない。
 つまり、日本においてはこうして「優等生」と「不良」にはそれぞれに独自の生涯の展開が、巧妙にコース分けされて存在する。
アメリカにおける様なチャンスは日本には殆ど一度もない。代わりに日本には始めから終わりまでコースが敷かれている。そしてこのようなコースを一端外れてしまうと、様々な社会的圧力により元々所属していた階級コースに再び乗り換えるのは本当に容易ではない。

 アメリカは平等の名目をとった実力社会であり、日本は階層の名目をとった単線社会である。両者にはそれ独特の長短がある。しかし、究極では両者は決して混じり合わないだろう。なぜなら両者は風土に対して適応した結果、そのような文化型を独自に捻り出した。


 日本はアメリカ文化型を部分的に摂取することで自由主義を消化しようとした。
 だが、彼らは国家制度を異ならせる為アメリカ文化へ完全に同質化することはないだろう。

人類学及び生物学

寒暑或いは天候適応。人間、乃至は動物は何故に寒さや暑さに弱いか。如何に対処するか。彼らの新陳代謝は体外物質交代とされる。如何なる交換も生体能力の環境適応に働く。温湿度は彼らの生体を維持する為の条件を形成している。どんな動物も一定範囲の環境から発生したのであり、その環境特有の状態変化中心にしか働けない。従って進化や退化に対して順応は彼らを定義する最低限度の環境条件に等しい。彼らは温湿度を順応の目安にする。彼らは体温調整を様々な仕方で行う。移動、太陽系生活リズム、汗、震え、毛、着物など。特に汗は彼らが獲得した有効な調整法であり、この故に哺乳類は体温調整毛を失って着物へと外部化し、より広い環境に再適応することも可能とした。人類は更に機械設備を作り、彼らの巣そのものを順応調整する。その結果彼らは脱星・宇宙空間へも進出を始めている。寒さや暑さは体感温度とは別に絶対温度として考えれば周辺空気の微分振動度に還元できる。どんな空気も微動しているが、その物質交代の密度次第では極めて暑くなったり寒くなったりする。その具体的性質について研究すること。

歴史論

平等主義教育に放り込まれたある青少年がどの程度の伸び幅を示すか期待する人々。彼らは家庭と学校を跨ぐ子供の実情を知らない。如何なる子供も前世の因縁、先祖の教養から自由ではない。家出をしようと出自は人格の基礎にまとわりつく。
 彼らは努力により階級闘争が補完される夢をいだく。現実には、彼らを通じて導くのは宿業でしかない。因果応報は世代を超える。同じく、種族は歴史の主体となる。如何なる人も前世の因縁から自由ではない。
 あらゆる行いは歴史となる。

京都、君が訪れた場所。
金沢、君が訪れた場所。
先行の知れない不安を解消するには、君は旅を続けるしかない。
奈良、君が訪れた場所。
那智、君が訪れた場所。
何年前から何年後までを支配する景色かも知れず、君を狂おしく取り囲む世界にある。
死に至る迄の片道切符を渡される。君は旅を続けるしかない。
何事も隠しきれない旅の途中では、どんな形而上学的存在からの恩寵ですら魔法の言霊にも等しい。
それでも、君は目の前の道を脅迫された野良犬のように直闇雲に辿る筈だった。
誰一人として君に共感を寄せない。しかし、君には他の道は存在もしない。
池袋、君の訪れた場所。
新宿、君の訪れた場所。
品川、君の訪れた場所。
どこにも君の居場所は無い。どこでも君には安らぐ暇がない。
とにかく君は永遠の前では致命的に無力で、偶然に匿われた草場の隅を占める浮浪者に等しい心地だ。
それでも、この世界では旅を続けるしかない。この世界には家と呼べる場所は無いのだから。
日本、君の訪れた場所。
地球、君の訪れた場所。
太陽系、君の訪れた場所。
天の川銀河、君の訪れた場所。
最初から最後まで君を徹底して追い詰めたのは抜本的な孤独だけだった。
産まれてから死ぬ迄の間、君には心安らぐ暇もない。それでも君は人間と呼ばれる僅かな期間に順応する様指導されてはいた。
特に意味もない現実の前で、喚きにも等しい偶発事の再拝を賜る気分はどうか。
お前には心安らぐ場所は用意されなかった。お前にはどんな安心も用意されなかった。
短い命、君が訪れた場所。
永遠の孤独、君が訪れた場所。
旅行く先々で君を歓迎したのはひとえに、観光客向けの偽善者達の搾取目的だけだった。

学部と院

就職準備と化した大学の学部教育においては、入学段階から修士・博士志望コースとは分け隔てがあって然るべきである。コース変更の為には一定以上の厳しい試験を設けるか、再び入学からやり直しをさせる。

物理学

なぜ宇宙は膨張するのか。全ての物質は互いに位置を交換している。ニュートン力学の運動三原則。過去が定義上で存在しない限り、無という事態は世界にない。絶対真空は仮想である。運動の原因は物質交代にある。何物も単独ではない。何物も他との空間状態の差異で定義される。如何なる手順で物質には差異が設けられるか。現象の理由は何か。如何なる最小原子も他に対する空間を持つ。如何なる最小原子も物質交代から自由ではない。

2007年11月20日

信仰

この世にはいかなる秘密も存在し得ない。
神様は全てをお見透かし賜う。

善を見過ごし悪を行えば必ず裁かれ天罰が当たる。
善を為し悪を避ければ神様は幸福を以て酬いて下さる。

講義単位の共通化

若年対象の大学組織は脱構築されねばならない。学習課程の複線化は正しい。門戸を広げ内部淘汰を厳しくすればする程、大学は企業的に合理化される。単位互換も流通が効く程、偏差値や名門に依らない大学間の健全な講義競合が図られる。教授職を終身雇用にする慣習も、組織みずからの経営方針により破壊されなければ決して大学法人は生き残れないだろう。

2007年11月19日

基礎教育論

2007年11月10日付け朝日新聞4面に学習指導要項の作り手へのインタビューあり。
 一に曰く「高校卒業資格試験」を行いその成績で大学が選抜すべしと。二に曰く国際的に劣る応用力を鍛えるべく「言語力」を重視すべしと。
 我おもわくば日本成人の知的意欲が低いのはひとえに科挙型入試の弊害なり。勉強は明治維新とやら勘違いしたる日本人独特の語句にて、通常は学習・learning・まなびという程度の自己啓発のきっかけづくりが後生育成の謂いなり。勉強嫌いを育てる義務を超えた高等教育とやらにはなんの先進国性ありしや。前二者の提案に一考の余地あるは当然なれど、問題の根は科挙の風がはびこりたる日本人の教育思想にあり。義務教育を超えれば自由主義教育を広めることこそ成人の科学理解度を高める要件なり。学習好きを育めばわざわざ奨励大金を投じて教えずとも各自勝手に学術研究は進む。各種研究機関も私資本を投じる趣きも民間に自然発生す。元来知的好奇心の芽生えありし秀才の種は受験摩擦に費やせば二度と伸びず。

 又、イギリスにて義務教育修了を16歳から18歳に引き上げる方針あり。朝日新聞2007年11月17日、8面。日本の教育方針進退如何。
 我おもわくば勉強嫌いを無理な勉強に追い込むは益々不良を不良化するのみ。人間には向き不向きあり。勉強嫌いには様々な仕事ありて、国際水準の平均知を涵養できれば、自ら欲せざれば外発的には充分なり。孔子曰く憤せずば啓せず、悱せずんば発せずと。誠に至言なり。また一面を明かせば元来勉強不可能の愚は生存格差により自然減数が肝要なり。これらを犯罪に走らせぬ為の受け皿に、世界宗教法人および最低限度の生活保障を充実興さぬベからず。我自由主義高等教育をば啓発的大学環境と信ず。この大学環境は日本の現代には存在せず。

慣習論

老人や妊婦、乳幼児連れ等の身体的handicapのある者はわざわざ一般乗客に心配を掛けない様電車では優先席付近に乗るべき。

建築学

安全基準の改定。階段と同じ水準で、高さ3m以上のエスカレーターには高さ1.5m毎に踊り場を設置する様に建築基準法を改善する事。

諧謔

人前で化粧する女は、もしも人前で髭を剃る男が現れたらさぞ幸せな鈍感家庭を築けるだろう。

2007年11月18日

化学

量子力学は化学法則に関する探求の一縷であると知らねばならない。
 確率を導入すれば我々としては対象を予測することはできても決定はできない訳だ。我々は化学作用を学べても化学物質の本質については殆ど知れないということ。なぜなら確率的にしかそれらの確定性が現れないのだから。どうして素粒子として我々が知覚しうる密度の物質に我々自身が本質を与えうるだろう。多世界解釈の議論。化学は量子力学に従う限りは作用学であり物質学ではない。我々が化学記号として知っている原子性質ですら、作用の問題であって物質自体の問題ではないと言われる必要がある。
 そして少なくとも我々が現代の設備水準で研究を進めるべきは主として量子力学の範囲にあるので、解釈はどうあれ様々な数学技法を駆使してもより精密な微視認識を与える様に務めねばならない。

天文学

いかなる銀河系も仮の相。なぜなら不可逆変化だから。そして我々自身の認識作用は化学作用である限りそれに又逆らわない。つまり我々は過去を観察することは永久にない。想像力という虚構によっては仮説するが、実際にはそれが人間の与える何らかの文学作為によってのみ可能なリクリエーションの方法でしかない以上、我々は物理法則に支配された自由人である。我々にとって過去は思議の対象に挙がらない。我々にとって現象のベクトル、これを時空系と呼ぶが、時空系についてしか考案されるべき物理法則上での課題はないのだ。それは過去を含まず、漸次に展開する物質作用の、とある密度を対象にする。
 我々は量子論を物理学的だと考えることができない。必ずしも実証されない法則を物理学は世界認識の基礎に仕立て上げるへまをしない。確率が入り込む法則を物理学に組み入れる錯誤はそれが非実証化されることを意味し、従って形而下学的秩序から食み出すものだ。数学は物理学にとっては実証手順を抽出的に省略するための道具であって目的とはならない。なぜなら自然科学の対象自体には数学性が存在しないからだ。我々が知性によって知りえるのは経験知についてであり、思弁知についてはそれ自体が認識対象である数学に任される。以上の混乱は純粋理性批判以前の命題として人類から歴史的に退けられた。とある密度がどのレベルにあるにせよ、我々はそのレベルに鎮座し世界をscholeを通じてtheoriaする。結局、我々は人間原理言い換えれば人間中心主義的な理性使用をとりあえず、控えるわけには行かない。我々は我々の五感以外の直観を知らないのだから。我々の云う、物理学而のとある密度は経験知の範囲を敢えて知性を支持監督し超えようとしないがゆえに我々にとっての物の理を知らせる。従って正しい物理法則は我々の生活範囲に普遍的に応用できるものだ。たとえいかなる宇宙的な変異に対してすら、我々の物理法則は我々の認識密度に対して適用可能なものである。物理法則はもののあわれに反する。物理法則は縁起の詳細である。

物理学

かつて今が存在した試しはなかったし、今後ともない。時空の相対性は常に双方が相違する事実に基づく。例えばどんなテレビジョンを通じても人物の時間移動が空間的にしか行われないのは相対論の枠組みを超えていない証拠に過ぎない。つまりは時間自体を化学作用たる空間から切り離して考えてはならない。
いかなる空間にも物質が満ちている以上、我々の時間概念はすなわち空間変移のベクトルについてしか語れない。そこにマイナスが存在する訳がない。とするならば、虚数の時間といった形而上学観念を真剣に考えているらしい某博士などは商売柄かもしれないが、どうやら純粋理性批判を一読する暇さえお持ちでないらしいが。過去は形而上学的にしか存在せず、形而下学すなわち物理学的には存在していない。ベクトルにマイナスを仮定することはできないからだ。もしそうしたければやはり虚数を書き表す為の非ユークリッド的幾何学上の方法が考案されねばならないし、実際にはそんな想像力ゲームは数学的にはパズル性があるのだろうが決して実証科学的ではない。想像力を操る文学の仕事だろう。従って風流な趣味人に委せておけばいいし、真理の探求者たちにとっては専ら無駄な事だ。時間と空間とは同じ化学現象に別名を与えた思考形態の違いに過ぎないのだが、にも関わらず、我々は空間的ないしは時間的に事物を観察することを通じて世界認識をより明晰判明にする仕事を知性に命じて継続して来たし、その役割は近代文明にとっての命綱でもある。
 世界認識にある体系を与える思考形式を我々は一定以上に洗練させるべきだし、それにはかつて築かれた形式が道具になる。時間は化学変化として絶えず更新されるが決して巻き戻らない。不可逆変化を否定する法則が宇宙のどこかに観察できれば別の訳だが。

生物学

生存欲求として知られる遺伝子の乗り物らしさはエントロピーの問題でしかない。混沌は完全な混沌ではない(ラムゼイ理論)。我々がもし完全な混沌しか知らないなら認識はない。いかなる認識も秩序の端緒である。生物はエントロピーの生み出す混沌‐秩序の間にある形・eidosの一様だ。様々なその性質も又、多様性に一役買う為の定型化された化学作用に還元できるだろう。こうして生物学は生態分類学の言い換えである。

物理学

ニュートン力学では説明不可能な最初の一撃は殊更、Godの御力を引用せずとも合理化されて然るべき化学作用の性質にまで還元できると主張する人々の一派。しかし彼らの非科学的想像力はエントロピーを如何に説明するつもりなのだろう。如何に知的に劣る人々にとってさえ、無から有が現れ得ない事を数学的に知っている。ゼロの概念を考案した古代インドの人々を我々は敬う。先ず、何らかの有事がなければ事物は展開される筈がない。揺らぎ、つまりミクロ化学的物質平衡の乱れが対素粒子間に世界を現象させたと考える人物は、乱れを生じさせる原因を数学的に思考せざるを得ない事に気づかない。我々には発想の転換が必要なのだ。
 アインシュタインが云う様に、時間を直線的に考える慣習を改めねばならない。それは空間と対になった単位系でしかないし、過去つまりマイナスと仮定した方向についてであれ、未来つまりプラスと仮定した方向についてであれ、無限大に増大できる。
 定常宇宙論の立場はこのような相対論の視座を根底に置くのだ。私も又、量子論が敗北する日を疑わない。例えば微積分のように、量子論と相対論とは対称形になった思考形式ではおそらくはないのだ。どうやって相互変換する。その為にただの一つの定式でも発案した人物が居たか。我々はその二つを同じ地平の元に見通すこと能わない。
 時空に対するアインシュタイン相対論を空間に対するユークリッド幾何学とか単純時間系に対するニュートン力学と同じ基本物理の原理と考える。それらの上で新たな宇宙現象認識の法則体系が築かれるべきで、量子論のような傍流に我々は深入りすべきではないだろう。というのは最小原子のようなものは我々が永久に知り得ない宇宙の微分仮定法の産物なのだから。

人類社会学

人類は個人散種を一夫一妻の枠内に限定してすら民族や地域の文明を高める事で個人種の生存確率を却って単純な乱婚あるいは乱雑な交配状態の野生界より良くする。土壌つまり文化のもった繁殖可能性への寛大さが良ければ種が栄える確率も自然に高まるのだから。各社会系はそれらの差異を維持させる分けられた花壇に例えられる。巨視的には何らかの多婚社会系はこの耐性が低い同一種的、すなわち近親婚的部分集合でしかない。実際その方が同類間競争を図り続けるより類的多様性の為にさえ有徳なのだ。というのは単に他害的な亜種というものも誤って選択されづらく、かつ何らかの傍流が以前の主流より適応的な環境がいつ訪れるか完全に予測できるものではないので。

後進

師を超えない弟子は役立たず。後生畏るべしに同じ。

国体論

わが国に東道の主人たる務めあり、国風の自律あり。なれば大人しき風を装い、平和主義者の代表役を嬉々として勤めざるべからず。
 いかなる国も国体に依りて興る。而して国体の強壮如何においてのみ、各国間に地位秩序の実威もあり。内安外競は日本人の智恵なり。対外にてはさてあれ、国内にて無用な紛争を起こす人物はいかなる世界組織からの誉ありとて胎内的には害分子と見なす他なし。平和主義国が圧倒的大差をつけて国体の勝利を見せつけてこそ、東アジアに共生秩序の風紀あり。

2007年11月17日

信仰

地上の聖を尊べ。彼らさえ失えば地獄には一人も道を知る者は居なくなるのだから。

虐めについて

子供の虐めは犯罪を隠蔽した質の悪い群集やその生態へのやくざな適応、つまり相負競争の模倣だろう。地獄に類比できるそこへ宿命的に縛られている場合、自殺するのは子なりの損得勘定か。
 この競争状態の教育効果は皆が傷を負う他悪い仲間への忌避の習性しか与えず、耐えきれそうにない子供には信頼できる世界宗教つまり多少なり利他性に関心ある人々を啓蒙し、将来的にやくざ型習俗社会を避けて暮らせるように指導せよ。

2007年11月16日

審美論

身体機能を知らずにその形態を洗練させる事はできない。健康美は整形美に優る。化粧は健康美を強調する為にのみあった。

2007年11月15日

文化論

日本人にとって稲作は学術展開の足枷となって来た。奴隷を用いず支配者数が極限られる二毛作では、民族を勤勉かつ和合的あるいは付和雷同的にこそすれ、哲学の道を志す独創性は排除されざるを得ない。
 日本の非創造性は労働集約的な稲作の後遺症かもしれない。産業革命を興したUKでの奴隷の数や食糧事情を調べる事。国営が賄える限り高等遊民をいかに大量に保持してもし過ぎない。彼らが文明を率いる。

考え

Philosophyは学ぶ事ではなく考える事。

博物学

何故人類は増加したか。天敵が現れなかったからだ。恐竜が絶滅した様に人類が絶滅する可能性はある。限度を超えた環境異変があれば。人間が殖えるのを防ぐには先進諸国でそうな様に、子育ての危険を高めよ。教育費の高騰がその最たるもの。学歴社会・男女雇用機会均等は人口を抑制する。
 いかなる国も近代化の果てに人口定常状態に行き着く。食糧危機は仮のもの。戦争に発展させない為には適度自給と多元貿易を維持促進せよ。人類が生存する事、し続ける事の是非を問え。彼らが造るAI-robotは将来、人類以上の生存力を持つかも知れない。その後に、人類にいかなる生存価値があるか。
 太陽系の天の川銀河での位置と、宇宙全容の地図とを照らし合わせ地球がどの様な地域にあるか調べよ。異文明接触の可能性と時期を予測する事。異文明の数と程度を予測する事。及び人類の地位を鑑定せよ。
 動植物の間で起こりえる突然変異に比べて、人類のそれは極めて短期間に社会へ反映される。人類は早送りの進化をしている。犯罪者を奇形とし、天才偉人を進化の標にして我々は種を素早く同類間に繁殖させる。民族は進化のるつぼだ。
 変異の上限をどれだけ高めても足らないのだが、日本人は五人組の慣習のせいでその足を引っ張る。もしこの習癖が改善不可能なら日本人は天才種を遂に養生し得ず、最終的には人類内で淘汰されるだろう。均質圧は格差弁と均衡しなければ国家を善導しない。人類は優れた生命体というよりは社会性に特化した生命体である。科学は彼らの常識を引き上げる。
 もし人類がこのまま進化し続けるなら、文明人類の過半は大人になる事をやめるだろう。教育年限は際限なく引き上げられ、最終的に社会は学校より小さな組織になるだろう。しかし、未来化を果たし得なかった民族国家はこの進化に着いて来る事は結局できないだろう。というのも差異づけの漸進により種の多様性ついてしか進化の方法もないのだから。
 ミクロ化学的最小元素は、ライプニッツがモナド・単子と言ったような形而上概念としてしか取り出せはしない。宇宙に限りがあれば遺伝子のヴィークルたる生命体がわざわざ産まれる理由もないのだ。我々の現実的には究極で想像力を通じてしか探り得ない領域についてであれ。
 筋肉質と、寒さの震えと類比したのから慣用があるのだろう貧乏揺すりとは何らかの原因で相関している、なぜなら女性には少ないから。一説に脳梁差が因とあるが、では女性的傾向のある左右脳密接な感情的職業の人達の間において、男性には起こりづらいか否かを統計せよ。それは子供が走り回らねばならない如く、血流の調整だとしたらいかなる事情が発生しているか調べよ。
 携帯電話レベルの電磁波が真実に安全か否か詳細に調べよ。PHSレベルとの比較。日常電子機器への援用。

自然学

黄金比、フィボナッチ数列について。なぜそのような一定の比例が、人体を含む自然の中に漸近的に見出せるか。ピタゴラスの思想とcosmosの関係。それらの宇宙法則と理性は如何にして符合するか。理性と知性の、理性と感性の関係。
 化学的規模でもそれらの幾何学的数理が現れるか調べること。数列は理性の錯覚かもしれない。人間は理性中心に世界を見直す。では理性とは何か。

2007年11月14日

慣習論

貞操の面から無闇に肌を見せる女性は卑しく、イスラムの女性は一夫多妻への適応にも関わらず操高い。

経済訓

金は使い道にて蓄財自体の為に非ず。蓄財は投資の便宜に如ず。

経済これみな慈善の為なり。家計を潤す為の勤労は高々蟻程努力すれば充分にて、人間の限度に非ず。
此を遥かに超えて天下社会の便利の為、一大福祉を志す者こそ尊徳たれ。

過労を戒むべし。唯、労働は能率たり。
而して能率を計るが為には克己勉励、智徳を益々増進せざるべからず。

医学

癌の原因とその治療法を研究する事。専門医学者の研究を奨励する事。細胞の突然変異を引き起こす遺伝子の正体は何か。なぜその種が残って来たかの原因と理由。解除する方法と、哲学的是非。「がん」と「癌」の違いについて書け。Cancerの語源と現代訳について書け。健康とガンの関係。ストレスとガンの関係。なぜ、どの様に死ぬ病か。過労を防ぐ為? 各国民の勤勉さ及び労働環境とガンの発生率に相関はあるか。
 長寿の原因。細胞壊死と再生率について、及びその仕組み。何が壊死を遅らせるか。抗酸化物質の正体、及び活性酸素の発生率の関係。
 老化とは何か、若返りとは何か。精神作用と肉体の相関について。どの様に人の髪は禿げるか。どの様に白髪になるか。皺とは何か肌の張りとは何か。それらの適応性について、できる限り詳細かつ明晰に書け。

不幸な人々に目を向けて、幸福からは目を反らせ。健康第一に過ちなし。

2007年11月12日

芸術論

漫画の情報伝達能率は象形的文字より悪い。視覚情報に対する効率のために漫画は水墨画を図解的に応用する。よって、漫画は直観的想像を与えるのに利点がある。漫画に高い完成度の絵画を期待することは現実的ではないし、経済的でもない。漫画は象形文字と図解の間に位置づけられる具象美術。絵本は趣味こそ違え、様式は漫画にほぼ等しい。
 表音的文字は音声化した観念しか伝えづらい。そこでの視覚的説明は二度手間だ。象形的文字は図解と説明の間に位置する、釣り合い良い道具。
 象形的文字は視覚情報の抽象。
 記述された詩又は文芸は文字を様々に連ねる事で、音声と象形の間に審美的情報伝達を発生させる芸術である。

植物学

ニンニクが臭う科学的・哲学的理由。化合物アリシンC6-H10-O-S2がニンニク臭の原因。何故この作用がこの種に選択されて残ったか。
 仮説。此が「食べる」行為で化合する作用である事は、動物に食い荒らされる事を嫌う傾向の種が選択されたのだ。
 では何の理由で動物摂取を嫌わせたのか。

国際国家論

文明は人間適応力のための機構。

 文明は幾多の天才を育み、人類独自の特性を益々伸長させて行く。
 個々人の生存確率の向上のためには、文明を養うしかない。なぜなら安全率の高さは個体同士を均質化すると同時に、集団全体を智徳増進することで図られる。文明はこの両面、均質圧と格差弁に働く。

 人間は他のどんな動物とも同じように、個体数を優位の条件としない。代わりに生存環境の安全性が優位なほど、個体数を減らす。彼らの同種間の優位は国家的安泰により計られる。
 人間は文明度が高まるほど個体数を減らす。その方が集団が安定だから。

 人間は人口を殖やす為に格差弁を弛める。結果的に下流は殖え、上流は減る。これは国際間でも真実。ある産業形態に必要な人員に最適化した人口密度が、国家ごとにある。
 逆に、均質圧が強ければ強いほど、人口は減少の傾向をとる。一夫一妻的な秩序の中で子孫を平均化するために同程度の教育を施し、結果として国民間に1、2人の子供を推奨するから。

 労働者が少なくて済む産業形態に向かっては均質圧を強め、労働者が沢山要る場面に対しては格差弁を弛めるべきだ。いずれにせよ、中流最多の原則を得る、それがなければ多数決の原理は有効さを失うのだから。

 国際関係の安定を計るには経済力の均衡を軍事的縄張り圏内において確実化し続けねばならない。たとえば、アメリカは孤立主義の可能な資源富裕国土で、その世界経済にもたらす影響は覇権と相まって量り知れない。WW2は事実上、世界恐慌が引き金になった。にも関わらずアメリカは戦場にならなかった。閉鎖貿易を敷いたそこが国際経済の均衡上に安定だったから。逆に、輸入資源に頼る枢軸国は無理に膨張政策を執る他、窒息死を免れる方法はなかった。

 その教訓を活かせば、国家経済は「多元均衡」を前提に図られるを得る。一国依存は大変に危険。貿易ブロックの可能性を考慮しても、特に化石燃料の自然資源に劣る国は何らかの仕方で大国と連合を謀るべきだ。
 完全な自給自足への努力は必ずしも理想ではない。ある国家には民族風土つまり文化に由来した特有の分業能率が存在するのであり、その特産性を活かして国際貢献するのが全うな国民経済の筋。よって、自給率は国家それぞれの多元均衡の具合と共にbalanceされてこそ功を奏する; 国の家計。たとえば、赤道直下の国から持続的な思考が必要な理論科学成果が期待できる、と言うことはできない。代わりに、その肥沃な土地を生かして栽培した作物を国連関税の方針に従って輸出することができる。そして両者の生産性は自給率と多元均衡にとって世界経済的には等価。Aの生産能率はBの生産能率より高い。

 しかし現状では、武力威嚇によって産品の希少性は株式市場から統制的につくりだされ、国家間に不平等な値で取引されている。この不均衡を調整するには、是非とも国連経済庁の介入が必要となる。そして関税方針を平等で公平なものに揺り戻してこそ、万国の個性豊かな育成が健全に可能。

地球文明学

科学は人類にとって何の役に立つ作為なのか。科学哲学の範囲に入る思索かも知れないが、科学は自然を対象にした思考遊びではないか。いかなる見識も相対的。科学は思考を洗練させる。科学はより真実らしい見識を導く。だが、永久に真理には到達しまい(イデア論)。
 科学技術は人類を幸福にするか。単なる暇つぶしの理論科学と異なり、その応用として現れる工学は、人類へ近代文明を拓かせた。
 近代文明は普遍的? たとえ数字ですら十進法の人間原理に基づく。同じく、地球環境に適応するための五感を利用した自然科学には、人間社会の知的程度を反映した社会学と同じように、地球人類独自の奇形が存在する筈。近代文明は人間原理に基づく限りにおいてのみ地球的。決してそれが全宇宙標準の証明となる訳ではないだろう。科学技術は未知の危機の為に、宇宙適応力を自己増進する為だけに役立つ。Technologyを悪用した人類はみな、近代文明拡大の犠牲者でしかなかった。
 理論科学における真理の探求はこの基礎力として働く。と同時に、人類の普遍的な知的地位を高めようとする。我々と同等程度の知能容量を持つ生命体が果たしてどの場所に居るにせよ、地球人類は知能特性を伸ばした随一の太陽系の命だった。
 古代ギリシアの哲人が考えた様に、真理の観想、理想する事が我々の目的ならば、それは来るべき地球外文明との接触のために滞りなく準備する努めを意味する。

2007年11月11日

英文混交比率論

日本語を横書き已に限定することの弊害は、あまりに長く縦書きに適さない英文字を無理に取り入れることで起こる。そして横書きしかできない文章は適応力を弱める。例えば看板のサインなどに甚だしい不合理をもたらす。
 あまりに性急な英文字使用は縦横併用という伝統日文の利点まで欠損させ兼ねず、慎重に消化されねばならない。

 よって、英字源の場合漢字を利用した訳語を7割方用いて、残りの不都合ある3割を英字縦書きで賄い、溢れる部分をカタカナ語で補うのが近未来の日本語方針として正しい。

二級サイト

規制以前には卑猥な広告を載せて恥じない二級サイトの利用をなるだけ避け、かつあちこちでそのサイトの悪い評判を巻き散らして合法駆逐せよ。

商品発明

アロマと色彩を含ませたドライアイスの入浴剤。[アイスと勘違いさせない工夫を施せ]

2007年11月10日

服飾論

無駄な特徴の助長は服飾においてさえ淘汰の原因になる。「無駄を適度に排する」中に服飾の洗練は見い出しうる。エンゲル係数の減退は健康寿命の促進と併せて文明の進捗に必然である。いわゆる高級ブランドが含む過剰装飾はみな、無駄の制度化のせいで未来に通じる余地を持たぬ前近代様式である。
 服装美術に重要なのは時と場に応じる多彩な組み合わせであって、変形した奇抜さではない。

征訓

政治の目的は福祉である。

この目的に背く政治家は遅かれ早かれ敗北する。

南蛮習俗の批判

空気読めと言う小人、つまり衆愚には風を通せ。衆愚は不徳で自滅する。道徳は自律。倫理的実践には、時と場合を見分けるべき。周りに合わせるべき時場と反するべき時場がある。

2007年11月9日

Internetの無法状態批判

Internetへの倫理規制、法的介入は必然となる。表現の自由の目的は、専制権力の堕落から反省された公権力濫用監視への個人的自由; つまり発言権の確保であって民衆自身の堕落ではない。

物理学

自由は物理的には存在しない。

2007年11月8日

数学

インド式の計算が果たして、数学研究の為に能率的か否か疑義されるべきだ。電卓のある時代に暗算は数学者にも要らぬ負荷かもしれない。数学は基本に忠実なパズルなので、学ばれるべき基本が多いと却って能率を落とすかもしれない。
 インドから有能な数学者が現れるかどうか、少なくとも21世紀中観察すべきだ。

生態学

人類の世界は文明において存在意義があるのではなく、地球生態系多様観の上で文化においてのみ固有の価値が認めえる。種の保存は利己的遺伝子の編み出した唯一の飽和対策である。もしその試みがなければ、我々は自らの経た血統へ役立つ可能性の宝箱を捨てる事になる。共生は競争の究極として物量的住み分けの姿をとっている、生物の自己展開の知恵なのだろう。利己的遺伝子は皆自らの生命展開の永続を図る。あたかも等速直線運動が混沌に対してそう行われる様に。

現代社会論

現生人類は知能生命としてしか進化し得ない。なぜなら他の非文明傾向は彼ら自身の生態地位を危うくするが故に排除されるから。他の生命が来襲してこなかった限り地球は事実上、宇宙文明にとって極めて辺境なのだろう。従って、最も幼形化が進んだ民族が地球生態系にとっての人類進化を誘なうのは自然か。我々は生後学習能力に特化したが故に高度に知的な活動が可能になったのだから、天変地異ない限りその傾向が性淘汰で推進される。
 ある民族文明の学習能力を上げるには、一定の淘汰圧を世間的に及ぼし続けるが良い。稲作の生産不合理性が東西における理論科学に格差をもたらしたし、その実態は食糧確保に対する衆間閑暇量に還元できる。これを格差弁と呼ぶ。一方で、農耕文化は均質圧を民情に慣習づけた。それが幼形化に働く原因なのは疑いない。均質圧が文明により近い世間なのは確か。格差圧はむしろ文化力の土台になる。創造的な風土は高等遊民を寛容する。人々は文明と文化の両立を図る必要がある。格差圧と均質圧とは調度良く釣り合ってこそ国家が興る。
 とは言え、大枠としての均質圧は進化の正しい筋道。それが人間になるだけ愚かではない知能種を性選択するように働く圧力なのは各国間民族史が実証している。幼形化つまり人類の進化は自然の種的不平等を社会的に是正しやすくなるように性淘汰する民族世間においてのみ実現する。それが体をも心に従属させるような民族の繁殖趣向となって導かれる。

2007年11月7日

民族論

地球学術への知能自体は地球閉鎖時代における道徳に過ぎまい。というのは、飛べなくなった孔雀のように、人類の知能が偏り無いとは我々自身には証明できないだろうから。むしろ普遍適応とは思想の緻密観についてのみ現実的である。我々は地球学術において偏りないintelligenceを目指すべきで、ある分野への特化は専ら目的では無い。従って地球人類間学識競争での勝利は目的では無い。重要なのは「文明」である。人類の将来性を推量すれば必ずしも各分野の頂点を取らなくても良い。

 知能偏差を測り適宜修正を加える為には客観的試験が必然。国連基準と国家基準とを照らし併せて判断せよ。同じレースにおいてあらゆる分野で一位を取る、ということは先ずあり得ないし、仮にそれに近い結果があれば試験法が偏っていると心配してみてさえ良いくらいだ。適切なのは地球文明人類間での平均点数以上を維持し続ける努力だ。未開部族を含めなくて良い。文明人類とはおおよそ近代化に成功した先進国民族間に限って良い。なぜなら周回遅れてしまった部族については、文明人類とは異なる種としての普遍的存在意義があるのだから。
 自由主義国際は文明人類における進化を誘う。未来として知覚されうる現代以降のpolisはその内にのみ実現可能性がある。種的進化は集団変異の幅についてのみ図られる。なぜならある突然変異傾向を一定数以上に増殖させた時、その民族はかつての種族との交配理由を離脱するのだから。淘汰は漸進的に行われ、進化は突然に現れる。

「文明」とは先進国際における進化土壌を意味する。それは性淘汰の傾向をinternationalに善導なしえた民族についてのみ現実的である。

人類生物学

人間の進化性。我々に天災や天敵が訪れない限り、人間の進化は心の面で計られるだろう。いわば人間は知能淘汰によって進化する。何故なら文明化以後の同類間競合は知的にのみ行われる。体の面では運動競技が代わりになるし、それは戦争ではなく遊戯である。
 性淘汰の大枠は知能的に行われ、結果として天変地異以前には人間は生命としての特徴を伸ばし続けて行く。一時的な退行には関わりなく、類人猿と人類を決定的に見分けるものはある知能特性のみだ。更に言及すればneotenyにおいて、人類は文明適応を果たして行く。自然は風土に人類をばらけさせた。そして各地なりの生態をcultivateさせた。
 進化は決して優劣では無い。単に人類間の競合原理でしかない。

国家訓

一夫多妻は格差社会と自由主義の弊害として退行されて来る。

教育性の低い配偶家庭からは「心」に富む個体が発生する確率は極めて低い。
代わりに、動物的な「体」の優れた個体が発生し易くなる。
格差は多様化の一方針なのだ。

 しかし、種が多様ならば国として優秀かと言えば異なる。重要なのは『文明』である。
変異の幅より平均衆度の高さの方が集団の存命確率のため有効だ。幅は単にその平均向上にとって、正反両面の競争原型として働くに過ぎない。

我々は「中流最多の原則」を破らない範囲でのみ、自由主義政策を執るべきだ。それを『文明適応』と呼ぶ。

闇雲に自由化して良いものでは無いと知れ――もしも大多数の下流と一部の上流だけで構成された民主政国家があれば、それを衆愚政末期の退廃と呼ぶ。崩壊しない理由は無い。

容姿

男の容姿は必要分をこえると、華美として仕事上邪魔にしかならない傾向がある。
 女の容姿には健康度があるが、中年以降は節度を保てば良い様に見える。

代理出産について

代理出産不義の論拠。養子とは訳が違い、人間は心身を分離できない。代理母がいる事はそれだけidentityを複雑化する。

現代日本進路

日本はASEANと台湾およびアメリカと親しむべきで韓国や中国とではむしろない。
従って、専ら共通貨幣を設けないままでの太平洋連合[Pacific Union]の構想は、東アジア共同体と呼ばれる辺鄙な着想に対して遥かに現実的であれ。

 韓国は自由化を示すとは言え飽くまで日本とは性格正反する文化である。日韓は相互に反発しあう事でしか共生し得ない水と油のようなものだ。
 もちろん中国は封建中央政府が存続する限り近代化する事は不可能だ。従って中国脅威論は拙見に過ぎぬ。
単に、その国家的意味は「地球人口の中央」として量的にのみ図られる。いわば質の期待できない巨大な労働者市場でしかなく、購買欲の喚起と言ったことは将来に渡っても失望が主になる。この点ではインドに関しても国民性に関して等しく、アジア市場というものはある種の生半可識者とやらが躍起になるほど甚大でも寛大でもない。そこは必ずしも成長しない。仮に成長するとしたら、イスラム諸国に比べて遥かにゆっくりとした速度であろう。
中国やインドの膨大な人口は将来に渡って「地球の工場」になるしかないだろう。

結局、優等先進国に変貌しうる文化風土を東アジア圏に保っているのは実質上、[反日米の観点から韓国を除く]台湾およびASEAN原盟だけだ。
日本が執るべき筋書きは見えきっている。日米同盟を太平洋連合に向けて希望に満ちて推進する事のみ。


 日本が道州制によってさらに強化された暁にさえ、PUはEUと急激な成長を遂げるイスラム諸国に対して最も雄大な繁栄の土壌となるであろう。
憂慮すべきは、日本は飽くまで『平和主義』を貫くべき一条である。
なぜなら、イスラム原理とキリスト原理の政治対立を単独経済力で和らげる事ができるのは、宗教に飽くまで寛大な日本人だけであろうから。それもみな万世一系天皇様のあまねき御慈悲故にあられると知らねばならぬ。

日文論

漢字は完全に合理化(草書または仮名)も完全に原理化(皆書または象形)もせず、道理化(行書または文化)のさなかに用いる時、最もその真価を発揮する。その行書文には多様性と秩序が程よく折衷されうるから。この原則上ではabc記号の組み合わせ以上の可能性が確保された漢字は、より優れた文字と考えられる。その為、未来に渡って漢字文化の残滓が完全に消失する事はなく、却ってその洗練に及ぶだろう。しかし、日本人にとって漢字は素の言葉を進化させる為の道具であって目的ではない。道具を洗練させる事はあれど行書字自体に文化的終目ががあるのではないと知らねばならない。それは単に近未来和文洗練の頼るに足る一方針でしかない。
 代わりに、日本語は英語とその文の学を通じてより、ことばを文明に自然適応させる事ができる。英語の持った「合理性」を日本語は漢字文化で得た能力を活かしつつ消化していくと良い。例えば体言の訳語・カタカナ語・英字表記、用言への活用有無の摂取消化のみならず、SVOCの組み合わせによる単純な文法やその背景に有する高い論理主義を日本語に対応する文体にして確立する事で、我々は従来の手段を失う事なくより高度な文明を実現しうる。

漢字論

国際漢字会議について去る2007年10月31日北京にて、五六千の標準字を定める方針を打ち出したと聞く。
 曰く、中国は簡体字が主導権を握る予測の元に統一によるアジア圏把握を企む。されどわが見解に赴けば、全く不可能なり。簡体字は無理な省略が多すぎ伝統的漢字文化とは断絶したる現代流行語に違いあらず。その将来は中国語話者の間にしか存命せず。この後に及んで日本の漢字(仮に日字と呼ぶ)の未来は如何。あるいは日本文化の未来は如何。

 我結論す。日本人にとって漢字統一は単なる「方便欄」に過ぎず。
 我々は仮名文化のおかげで無闇に画数を減らすため無茶な簡体字を採用する必要は全く無いし、同時に、実用に適さず必ずしも美的とは言えない旧体字(中国風に言えば繁体字)を全面的に復活するべきでもない。日字は漢字文化の伝統に通暁しやすく、同時に合理美化を伴った日本語の一部なのである。つまり、発祥がどうあれ漢字はもはや中国だけのものではない。この点で現在から近い将来に渡り中国人の識者の程度はよく疑義に呈されねばならぬ。よって、日本人にとって漢字は、日字の益々の洗練に向かうべきもので決して折中が主眼となるべきではない。漢字から文化されたものではあれ、日本語における日字は今では、国民全員が読み書きできる「日本の文字」なのだから。

 私は今後の展開によって漢字に標準字の様なものが国際的に制定されるとしたら、それをむしろアジア文字又はアジア字と呼ばざるを得ない。
 確かに標準文字の機能をかつての漢字文化圏の一帯で利便するだろうが、それを全アジア人民が採用するということはあり得ないだろう。むしろ、結果としては、アジアン間意志疎通に潤滑油となると同時に、中国語に旧体字へのかなりの退化が起きるのが落ちであるだろう。口語を基準に据えた簡体字は中国語話者にしか用いられづらいのだから、亜細亜全域に逆進出は二度とない。恐らくは黄河流域の衰亡に伴ってかつての漢文化の栄華を中国は未だ取り戻していないのだ。

 日本人にとってはアジア字は専ら暫く、日字を崩して書く為に方便される方便覧の役目を果たすだろう。一部はさらに便利な字を輸入する場合も考えられなくもないが、亜細亜に文明の輝きが見い出せない現状ではそれも基本的に難しいだろう。漢字の大分は飽くまで原始的象形を起源に根付かせた世界的な後進文字である、という事情に我々は思慮深くなければならない。
 たとえばラテン文字では起源が象形にあるA(アルファ・雄牛)、B(ベータ・家)、M(ミュー・水)(出典『ラテン語とギリシア語』風間喜代三、三省堂)の様な文字でも、或いはソクラテス的伝統に基づいて口語主義的に洗練させた結果、表記文字に性質は非常に近づいた。とはいえかな文字の様全く表意性が消滅した訳ではないのは、発音記号と文章表記が別なので知れる。エジプト起源の象形文字を徐々に西洋風土に根付くよう改良を加えた結果、アルファベット程度まで表意性質を印欧民族は減退させたのだった。
 いわば、我々日本人は将来に渡り日字を完全に捨象するには足らぬ、というのは現状でさえ現代朝鮮語でそうあるようにあらゆる漢字起源の語句を敢えて表音表意しないのだから。「川」を「かわ」とか「セン」とかわざわざ書くことにはどの程度の徳があるだろう。かと言って発音が無用な文字は絵画であって文字ではなく、少なくとも画数・形態・意味を文化的に絶えず検討し直さねばならない。いかにもややこしそうだとはいえ、最も効率的な文字洗練には自然淘汰が望ましい。つまり、各代のまつりびと、文人、たみなどによって使いやすいままに任せておけば最も美しい文学秩序は時代ごとに現れてくる。しかも日本人が常にそうして来たように、時代ごとの変遷を文化的に保存しながら淘汰させる事で我々は温故知新の伝導者になり得るだろう。尚、岡倉天心の『日本美術史』に象形文字は典型的なイメージによって絵画での写実表現を抑制する、という見解あり。象形文字の文化と対応させて比較文化論的な考察が必要である。以上を慮って日本文化の未来を解けば、台湾との関係を親密にもしてきた便宜として、新旧字体の通義便覧としてのみ、日本語にとっての亜細亜文字の立場は適宜採用される。そして日字は日字独自の洗練を尚も続ける。

2007年11月6日

虚像

愚者を反面教師にすれば誰しも偉人に成れる。聖は手本になる。如何なる人間も又、賢愚の両面を持つ。故に、神ならぬ虚像に帰依する事無き様。

2007年11月5日

啓発

いかなる教育も独創のためにはマイナスに働く。未来の子どもは家庭・社会間の啓発のみで育つだろう。

自然学

どうして宇宙は始まったか。又どうして終わるか。多様性と生存確率の関係を解け。哲学的には、宇宙が広がる前提にしか精神は存在しない。精神作用とエントロピーの関係を宇宙論に関連づけて解け。国際経済の平衡のためには国連調整以前にいかなる対策が執りえるか。

2007年11月4日

説法

愚民には反語を。賢者には成語で足りる。

社会学

常に文化は高等遊民によって耕される。いかなる潮流もそれ自体の中から革命され得ない。

2007年11月2日

文化

ある語義が確定できない、という事は言語活動自体に些かの退化も斉しはしない。文脈の中で意味を主観づける根拠を多岐化する事が後現代哲学の命題となる。確定不可能であっても伝達確率を向上する事はできる、つまり文化。

訓練の方法

ストレッチ・持久走・筋肉トレーニングをバランスよく。それぞれ柔軟性・持久力・瞬発力の鍛錬になる。

地球人類学

地球は宇宙全体においてどのような地域にあるか。地球人類が宇宙全体の中でどのような地位を持つかを調べる方法は。もしも人間のneoteny化が漸近的に進み続ければ、未来には我々が想像したエイリアンに近い、頭でっかちの赤ちゃん的な遊戯人が現れるだろう。だが、そういう新生人類は現生人類とはほとんど関連を持たない。ちょうどチンパンジーと人類とは異なる社会圏にある様に。
 仮に彼らを未来人類と呼ぶと、そういう未来文明に適応した個体にとって、当然ながら社会体制を含むコミュニケーションスキルにも多大な進化があって、我々の非ではないような通信言語が存在しなければならない。従って我々には彼らの会話が理解できないばかりかあたかも機械が発音練習をしているかの如く多様かつ単純な音声で疎通する。鳴き声から言語へ、という筋書きを考えれば言語は未来において更に情報処理の緻密な単純さを獲得するだろう。アクセントは徐々に消えて、短いパターンに複雑な概念が抽象される。たとえば日本語の文明がcivilizationの訳語性と文明らかの表意性を両義化するように、言葉自体は単節化しつつ、その抽象度は上昇し続ける。我々が原始人類の会話を拙く感じるように、未来人類は現生人類のそれを未開に感じるだろう。
 そのような未来文明においてさえ、地球人類にはどのくらい生存可能性が残っているかを検証しなければ。もし地理環境が極度に辺境なため、宇宙における奇形文明を築いているのなら、我々は自らの地球文化を少しずつ改良して行く努力を要する。人間原理は相対的である。

2007年10月31日

スコレー

Schoolの語源がスコレー即ち「ひま」なので、啓発の根があれば草木は放っておいても育ち続けるだろう。

2007年10月29日

政体訓

理想的な政体は民族間の新陳代謝に優れた『中福祉体制』にある。
高福祉社会は閉じる傾向が強過ぎて国際的に孤立する危険があり、特に人種混濁が限られる国土に於いては必ずしも持続可能性に高くないから。

デザートの効用

食後に少量の甘味は腹八分目を満足させる習慣づけになる。

力学

問い、なぜ宇宙は動くのか。必要な原理を述べよ。

2007年10月28日

建築論

建築は抽象化された自然そのものになるべきで、個性を目指してはならない。先ず普遍性の元に建築は現れる。後に、人々が生活の中でそれを工夫して多少あれ個性化する。たとえばマンションに何のカーテンを吊すか、といった調度に於いて。ベランダの大きさは普遍性のもとに立ち上げられて然るべきである。建築とは個性に破壊されない範囲にあるのだ。建築とは不変性についてであり、調度については仮設と呼ばれる。

思索

ある文明は文化に依拠する。

医学

何故老年は睡眠量を減退させても生き延びる事ができるか。

2007年10月27日

Biomass rule

バイオマス燃料の倫理への解。寄付を上回らない量で善。

2007年10月26日

勉強

もし自分自身に嫌でもやらなければならない事を自発的にやらせたければ、比較的よりやりたくない事を突きつけて、自然にそちらへ逃げ出させるがいい。

政治学

民衆による政体は資本経済浸透期に国家間競合の手段となったもので、必ずしも最善ではない。というのはこれに固執した同一の政体を棚上げする限り制度疲労によって堕落、衆愚化が起こりえるのであって、必ずしも長持ちするものではない。長持ちする様な政体が国家運営の目的だろう。
 Aristocracyは中流的多数者による政治運営を意味する。いわばそれは高市民政。間接民主政とはrepublic aristocracyの方便だ。中流の最大数とその教養程度が最善の政体の鍵。中流最多の原理と良識に関する高い衆度が長持ちする政体をつくる。裏がえせばそれは極端すぎる富裕の格差社会が極めて短命な悪しき形態で綻び易い姿な事をも示す、ある時代段階を位階制によって能率化する場合のてだてをこえて公共を無視、競争的公害に至ってさえ各々我意を追求しているのみだから。
 ある革命期における王政や共和政は余り驚く事でない。少なくとも貴族政ですらやがて世襲的に寡頭化する傾向は免れなかったし、それさえ国際協調以上の理想ではない。
 貴族政をaristocracyと慣れでよぶのはAristotelesの政治学に関しては、語弊がある。寧ろAristotelesは共和論者に近いし、貴族政を少数者支配として最善とは考えなかった。大まかなスコラ哲学がAristotelesの意図をとらえそこない、勘違いされた政体名義が敷衍されてしまったらしい。
 Aristoteles『政治学』にかえって再度定義しなおせば、より精確なAristotelesにとっての最善の政体はrepublic aristocracyとよぶ方がいい。このrepublicを試みる多数者が本来、aristocratic。そしてそれ自体と少数者の支配による貴族政は、言葉の本義にもとづけば分けて考えられていい。
 ある国家を永続させたければ国際調和が国家運営の命題より上に来る。よって、王政‐貴族政‐共和政は場面にあたって絶えずきりかえの効くようにされるべき柔軟な手段で各々目的ではない、即ち3つの政治。Aristotelesの定義では多数者支配による共和政がこの中で最も誤りを起こしにくいが、それも参加した発言者が多いので大失敗以前に修正できるかもしれないという消極的な意味にすぎず、人類の置かれた状況へ万古不易の適応ではない。政治制度は当面の構えで文明の目的ではないといえる。王政は世襲の有無に関わらず群を抜いた最善者が見られる時に限って有効。貴族政は3つの中で最も公務が職能化し易いので効率的であり、状況が複雑ではない時に基本的な役割を持つだろう。貴族の義務: noble's oblige、とよばれるある維持された政体下ではぐくまれる特徴的高貴さもここに由来する。
 よって、Aristotelesの意味での共和政が最も適しているのは変化に富み多岐に及んだ過ち易い状況という事になり、他ではない。
 政体の名称図
構成員数 利他的或いは善 - 利己的或いは悪
単独者 王政 - 独裁政
少数者 貴族政 - 寡頭政
多数者 共和政 - 衆愚政

2007年10月25日

褒美

健康は褒美だ。神はその前でしか自由の代価を下されない。

哲学

哲学は学識ではなく批判である; Philosophy is a critic rather than scholarship.

人種学

人種は風土適応の結果で、優劣というほどにない。人種は習慣に非ず、遺伝なり。

2007年10月24日

思想

文字は文字以上のものを表象しない。思想は文明による。
 文明は世界史の均衡調和役で覇権が目的ではない。真実の文化は繁栄より伝統を仰ぐ。競合は手段、平均生活度が主義。

Philosophyに近い漢語、仁知。

数学

人間に数より抽出的な言語記号なし。

数学

数の概念は人間原理に基づく限り、数学自体も地球文化的で普遍的ではない。

数学

数は自然内に実在しない。それは人間的仮定である。

人間

宇宙に訳なし、無限已。即ち自然。人間しか理由を持たず、数学も又然り。即ち人間原理。

2007年10月23日

分類学

あらゆる分類は便宜である以上、普遍的に体系的であるようにすれば良い。例えばミドリムシは動植物的原生生物に値するにせよ、自立移動性の観点から動物と仮定した方が良い。

2007年10月22日

文学或いは文芸研究としての芸術学

近い将来の文芸は全て対訳で載せられねばならない。翻訳は原文解釈の道具でしかないから。

感情

感情は理性の失態。しかし、本能との中庸においてその洗練にも又、人心的価値あり。

個人教育

集団教育はschoolの堕落したカタチである。最善の教育とは個人指導に尽きる。教育は啓蒙の言い換えであり、単に後進啓発の便宜に過ぎない。ゆとりあるエデュケイションだけが真実の知恵をもたらす。

新しさ

過去を絶えず捨てて新しくなれ。

分協業

人間は五感を分業して楽しませる。それぞれの官能の合理的洗練の為に。
 文明が残すものは地球生態系の多様観への貢献以外ではあり得ない。
 国産経済間の均衡を図る以外に国際主義の方途なし。国連による保護課税方式を探るべし。それには現在の常任理事国の地位を経済的に脅かし、実質負かすに如かず。非常任理事国における経済発展志向・技術社会志向は国営福祉が必要充分な範囲に限って現在的正義である。
 全面的な男女同業は生来能力格差や性別能力の由来から不可能なり。分業が最も能率的なのは疑いを挟まず。協業とは寡占化による単なる人口減退の方便なりき。

成果

如何なる生体も滅びる迄の仮の宿りならば、人間はどの道、成果に懸ける他ない。人間の成果、文化。

2007年10月21日

家計訓

慈善の為に私腹を肥やせ。

彫刻論

彫刻は光と影の交響曲である。

そのうつくしさは世界が奏でるリズムに依る。
彫刻家はただ、物体を通じて陰影を抽出しうるだけだ。優秀ならば無際限に、凡庸ならば僅かながら。

2007年10月20日

文化論

過去は全て美化される。その最良のessenceを伝統と呼ぶ。

 我々が現代において身近に観察しうる全ての醜悪さは必然淘汰される。よって、文化人たるもの伝統美の上限向上に集中すべきで、世俗の流行に一喜一憂してはならない。
 古典を尊べ。逸りに乗るな。

2007年10月19日

生活

芸術は早く人生は遅い。前衛芸術ならまだしも生活に慌てるべからず。

2007年10月18日

体が仕事の基である限り、仕事より体が大事だ。

2007年10月14日

信仰

いかなる悪もすぐに亡びる。


反省しない愚者は短命である。

信仰

聖者のことばを聞くのは楽しい。

愚者の漫才に戯れる者はいずれ自らも堕落する。


空気を読み同じて和せず、真理を読まない者は滅亡する。
つねに進化の道から遅れない為には和して同せず、集団から独立して居よ。


肩書きだけを見て人間性を見ない者は騙される。
人間性を見て肩書きを忘れる者は救われる。

2007年10月12日

信仰

100人の愚者にけなされても1人の賢者に褒められればそれは良い行いである。
ちょうど虐められる仲間を助けるサルがいずれ地位を得るように。

人類性別論

卵子間生殖可能性を考慮すれば、将来に渡る男性の地位如何との議論あり。2007年10月12日(金)、朝日新聞33面に関連記事あり。
 本能は進化系億万年の蓄積であり即日に変わるまい。従って異性間が現行人類における生殖関係の基本になるのは疑いない。がその類型において上記のような特殊な場合が部分的に認可されても不思議ではない。
 生存的多様性が生態系の目的ならば、やはり同性愛者にも相対変異として一定の地位は考慮されるだろう。従って特殊な例外を除いて女性限定社会というものは到来し得なく、飽く迄も男女間均衡の形態を様々に試作する経過があるのみ。
 性別は進化の方便である。それが単に有性生物の競争原理を遺伝的散種のゆりかごへ導いただけでなく、人間において更にその細分化のため情緒という性質の養生に役立てられたのも疑えない。性差は情緒を羽含む社会的性格づけであり、それが好みや制度的抑圧を通じて生殖可能性の微分に役立ったのは自然である。
 もし人類以降の生命体を考察に入れても、我々の実現して来た性別や性差の特徴は止揚されて活かされるだろう。

商品提案

糖分を含めず、不足栄養素を炭酸水で割った飲料水。

信仰

単に年長だからといって尊敬されるのではない。
長者にふさわしい知恵により尊敬されるのである。

2007年10月11日

経済的思考

節約中に楽しみあり。経済的思考は慈善に敏感ならしめる。功徳は信仰心を救う。希少ならぬ贅沢品には判断を保留すべし。

2007年10月10日

信仰

いかなる宗教もみな、当為たる理想国への概略図。

みずからの信じるに足る道を行け。

因果応報は人間の真理である。

美術館

美術館は様式の実験場。仮設を通じてであれ常設であれ、我々はそこに溢れる様式観から身近な人為環境の改良策を模倣できる。

信仰

生まれではなく行いにより因果は決まる。

大和魂の脱構築

カントの甚大な功績は真善美の間に特定の価値等級をつけずに批判体系を樹立したことだ。
 よって我々の思想には西洋中心主義やアメリカ主義、中華思想に於ける理性至上論つまり善を絶対視させる合理主義、或いはまた皇室中心主義や中華思想の日本版である京都思想に由来した関西地方自己中心主義、関西結束主義や関西民族主義、東京巨人主義に於ける感情至上論つまり美を絶対視させるもののあわれ的な大和魂からの脱構築可能性が開かれている。
 我々は国際福祉の建設のために文化的共生の連体を目指すべき。民族間敵対は、国際経済で便宜的に解消しうるだろう。

学徒

学ばざる者食うべからず。

人工の24時間

人間は人工の24時間を作り上げれば宇宙空間でも暮らせるだろう。

2007年10月9日

後世

全ては後世の為。

長寿

馬鹿は病まぬが早死にする。長者に道徳あり。

2007年10月8日

教養と哲学の違い

哲学は極めて個人的な疑問を解く鍵となる行いであり、単なる教養学ではない。
 教養学者は哲学者とは成り得ず、またおのずからその言説は異なる。真に歴史的参照に値するのは独創的な哲学者のみ。当代一流の教養はせめてもの対話に役立つだけだ。教養自体には史実上の価値はない、というのはあらゆる史脈は可変だから。
 哲学者だけが教養の総合を個人的に果たして学識体系を築きうる。その結果がある学園思想の潮流を形成する。
 哲学者の道徳は仲間の教養の方向づけ、のりをおおよそ決する。

2007年10月7日

道徳は身を救う。

陽炎

陽炎と変わらぬ命の祭り哉

2007年10月5日

趣味論

趣味は独創の一形体。

2007年10月4日

秩序

人間は自然に最大限逆らう事で調和的平和を欲する。遂には理性的に繁殖抑制し定常人口に到達する。
 文明は活動を合理化し続ける。整理された宇宙が多様観に趣を添える。秩序とは我々の文明観。

2007年9月30日

徳義

選択しなければ貶められる。
 自然には徳義なし。
 瞬時損得は秩序の具にならず。
 賢ければ未来の幸福の為、現在の快を犠牲にする。
 社会は道徳を制度化する。生まれ来るもの死に絶える。生体は自然に逆らう。知能はその極点を目指す。
 我々に知覚しうる次元は夢と考えてもおかしくない。
 我々の知覚以外にその現実感を実証する手段なし。
 論理はそれ自体にしか理由なし。

2007年9月27日

映画批評

侍の奥方において貞節より死守すべき生の目的なし。武士道において一家主たる務めは主君の為の仮の営みなり。

演劇論

虚構内でしか演技できぬ者はいずれもみな二流の役者である。人生以外に演ずるべき舞台なし。

2007年9月26日

世俗

より良く死ぬ以外に道なし。人生には苦のみあって楽なし。世俗生活に価値なし。

2007年9月25日

文芸論

私は何も語らない。私は世界の真理を映す鏡となる。

思索

道徳律に関してどれだけ高尚でも高過ぎることはないが、その倫理的実践に関しては中庸を択べ。
 ジーザスやソクラテスは公徳私徳の分妙をあやまてるものか。

2007年9月24日

虫の声

秋の夜静かに聞こえる虫の声

2007年9月22日

処世

浮世の処世は方便だ。そこでは戯れのわざにたけた者こそ救われる。

信仰

いかなる俗物でさえ自らの悪業のゆえに子孫ともども滅ぶ。

個人主義論

あらゆる生物の歴史において大多数が進化の速度に遅れて行ったことを考えれば、生き延びられた聖者の子孫においてのみ、人類より進化した生物は発見できるだろう。
 もし途中で俗物に蹂躙され死亡したら、その種は場所の適応に耐えなかったという事。俗物の大勢が愚かな侭生き残る確率は低いから、この進化系統樹は衆愚として失敗するだろう。
 これらが天才を生かす個人主義の正統性。

信仰

人間界ほど愚劣な地獄なし。

俗物は集団になって聖者を殺す。ジーザスが神に召された如く。


 かく如き早く去れば去るほど幸せな地獄に居残る理由、磔の義務以外になし。

 かくの如き磔は派手にして大袈裟であればあるほど良い。
その演技が巧ければ巧いだけ俗物に原罪を感化させ、己れの悪業を反省させうるから。
フランクリン13徳に曰くソクラテスとジーザスを模範にせよ、とは誠に至言である。
太宰より川端の方が、川端より三島の方が、三島より芥川の方が、芥川より漱石の方が役者が上であるだろう。

聖者の磔と俗物のそれとには天地の価値差が存在するのは唯、演技力差に過ぎぬ。誰しも肉体が人間たらざるを得ぬ以上は。
 生き急ぐなかれ、死の覚悟を引き連れて天寿まで往け。「牛歩」を主義にせよ。

学園論

どの学園、大学、学校、学舎、まなびやも同時代内偏見を免れない。抜群の天才は学外から出る。かれは潮流を脱構築するがゆえに当代無名。
 演技の方便に長ける人物は浮世に能才を振る舞う。この人物の中には真実の俗物もあるが、一方では隔世の秀才も潜む。

2007年9月21日

芸能批評

芸能人は自分達を中心に世界は回ると思っているかもしれないが、テレビを見ない人には有名人でさえない。かれらの給料は広告収入である。芸は客寄せで、テレビ番組の主目ですらないのだ。

道徳の人間性

これまでの人類の進化は漸近的なもの、恐らくはこれからも暫くはそうだろう。当為への漸進は人間道徳を特徴づける。
 突然変異ない限り人類は人間にある。道徳神学は人間にとっての道徳。

2007年9月20日

信仰

全知全能の仮称としての神ほど我々を独善から救う理念はない。

[いかなる偶像へのエロスに対してすらこの理念は働く。失望は試行錯誤を通じて神への導きに足る]

字説

戻は犬と戸による旧字から生まれた異体の日本字と考えてよい。モドルという語がモトルから派生したにせよ、現代人が戻を見て表意的に解釈してもさほど不都合はないからだ。
 そして戸の下に大(ひと)を埋めるような風習は散見されない以上、戻は旧字とは異なる新しく作られた漢字と考えてよい。

普遍

いかなる文化にも多様性以上の目的はありえない。文明において普遍性がそうな様。

趣味主義論

パスカル曰く、考える葦たる悲惨から目を背け、とるにたらぬ慰めに耽らせる気晴らしは危険なり、と。我答う。いずれすべては気晴らしに過ぎず、と。神の国を建設する為の道程に幾段の階段ありしや我々知らず。されど人間を進化させる原動力は目的的活動、すなわち趣味なり。もし信仰を批判すればそれすなわち神話伝承の趣味にあらずや。どれだけ主義へ熱心淡白にても人間存在これ一個の自由実存に過ぎず。かれが偉大か悲惨か分けるのはただ活動の種類によりけり。人間は人間なり、いかに獣類未満の悪業愚劣を尽くせども、いかに救世主同然の善導を尽くせどもやはりこれ人間の仕業に他ならず。趣味主義は人間個性を容認すなり。主義の自由を気晴らしの方便として寛容すなり。
 ある人曰く、殺人の気晴らしこれ如何、また人事無用のパズルゲームへの熱狂人これ如何、あるいはアブラハムの地にて布教に狂信するキリスト者これ如何などと。我答う、主義は自由なり。気晴らしがなければ人生これ単なる奴隷機械なり。気晴らしの種類に応じては他者に損害を与う場合あり、自己欺瞞に陥り世界独我の発狂をもたらし独裁者や恐怖政治家をも生む危険なきに非ず、されどこれに反して第二第三の才をももたらすに非ずや。自己一個の主人たるには主義もたざるべからず、またこの主義は成長あらばしばしば改新せざるを得ず。
 暇つぶしは理性の自在な発達を養生す。而して人間に気晴らしを許すべし。その功罪の罪の悲惨にのみ目を向け功の偉大を退ける臆病は真の勇気の沙汰にあらぬなり。
 パスカルによるかのごとき対ギリシア保守論客の見解は人類文化に遅滞をもたらすものにして、ヘレニズムの英知をかろんずるヘブライズム偏向の狭量と言わざるべからず。もし賢あらば以上わが述べし見解の善悪をよくよく考察せよ。人間の最高幸福とはなんぞや。和辻曰く幸福は風土的なりと。されどカント曰く、理論という語に最も今も保存される意味で理性の自律した使用はこれすなわち信の行いなり。ならばあらゆる風土的な幸福もまた、様々な文化を通じて信ずべき理性を目的にするのは明らかなりき。文明とはその結果なりし。いかなる未開の部族にも人類ならざるかぎり語族としての文明は存在す。その分妙は必ずしも厳密に決定できずとて、突然変異による種の差異の範囲で仮定し真理へ漸近させることはなしあたうべし。

哲学のひきだし

学校は知識を教育できるが、みずから学ぶ哲学の心を与えることはできない。唯、ある程度のまねびの手ほどきを与えられるのは事実だろう。従って学校の最大の価値とは優れた同志のまねができる環境にある。学校教育に価値があるのは衆知の平均を向上しえるからである。学校が真理を生み出すのではないし、むしろ集団教育は独創性を摘む場合が多い。ダ・ビンチやエジソンばかりかガリレオやニュートン、アインシュタインも独学が主体だったことを思えば、我々はつねに「例外」的な天才を許容する余地を持って教育の任に当たらねばならない。教育には教えよりeduct(ひきだす)心構えがなければならない。人間は個性を通じてしか理解をしないものだ。比較していかに出来のよくない生徒でも、哲学する心さえ養生できればみにくいアヒルの子になりえるかも知れない。ニュートンやアインシュタインでさえその思索的な天才性によって幼い頃ただの劣等生扱いされたことは歴史が記録している。重要なのは成績というゲームの点数よりも、智恵を愛する心なのだと指導せよ。いずれ哲学者は秀才の群れを抜きん出る。

2007年9月19日

学歴論

女性の高学歴化には少しも憂うべきところなし。唯、命令は男性の尚更の高学歴化に過ぎない。生体本来の出来栄えには性別格差あり、同じだけ努力したところで男性の方に知力の軍配が挙がるのは相撲を取らせた場合と変わりない。そこに特徴あるなら、女性一般はその母体の必要から男性一般より比較的成長が早く、伸びが少ないという事実である。従って男性の成人は女性の二十歳に比べて三十路に引き上げられて然り、嘗てこれを丈人ジョウジンと呼んだ。その間、真剣に勉強すれば社会は劣等視する余地を持たない。男性の成熟のゆっくりさは貫禄といわれる。
 考慮されるべきは女性の学問の種類、女性学者は極めて少ないのが事実で、またそこには必然もある。なぜなら家内として構造的に最も適応的な女性という性別にとって、育児に無関係な知識の増長は却って身を滅ぼす原因になる可能性がある。それは男性からも男性としてしか見てもらえないような奇妙さをもたらすだろう。そしてこのような非家庭的な種が性選択で淘汰されるのは自然である。現代結婚は両性の合意に基づくから。よって、女性には家政学や一般教養という特別な学問部門が設けられるべきだろう。国際適応にはある程度の社交性を必要とするとあらば、花嫁修業的な女子大学における家政学部とは別に、一般大学内に一般教養学部を確立することは教育者の急に迫った命題である。現状では文学部にこの含みがある場合もあるが、それでは本来の文芸研究者志望と混同される節があり好ましいとは言えない。一般教養学部の新設は大学の必然となる。

国学論

一国文明の先導と啓蒙は均衡していなければならない。

2007年9月18日

文芸論

日本語がローマ字を用いるのはその必要に即した表意性のゆえ。

 教育キョウイクeducationエデュケーションは異なる言葉で発音により使い分けえる。

簡体字と漢字の差について

現代中国における簡体字にとって文字への表音的な単純化は免れない。高度に抽象的な言語を創造するには語族の創意工夫が存分に活かされて然り。

 仮名表記は表意能率の面から外来世界語を部分消化して利用していて自然淘汰的。ハングルは人為的な急進革命。

 語は必ずしも合理さが最良とは言えず、computer言語よりも日常語にとってはむしろ「多様さ」が確保されている事の方が文化の命題。来るべき工夫の土壌となるから。
 文と語は相関しており、両輪として歩む。

 近代日本語には英語・ローマ字が重要な消化対象となっている。これには、在来の漢語方式の整理が必須項目となる。文語は口語においてもそうな、多様可能性の一方で学習便宜としてある程度の整理が果たされていなければならない。

 仮名は約50音表記を平・片仮名で行う時点でもかなり複雑な筈で、読書人を度外視しても学生の学習用漢字の種類というものはかなり緻密に検討されてもいい。平成現行では約2000字もある。
(一説に中国での常用字の数は凡そ同数だが、小学校での学習漢字数は3600字もあり、日本の小学校の約1000字を大幅に上回っている。中国は東西文明の比較観点からは、どうやら大幅な徒労ということになるだろう。)
その中にはあまり実用的でないものも、また無駄に繁雑化されていたり充分ないしは字源系統合理的に整理されたりしていない混雑した字がかなり入っている。
 音をむやみに優先させることは漢字本来の利便を妨げる。英語に比べた漢字の利点は、もとの言葉にとってむしろその表意性にあるので必ずしも表音性にではない。
「ある言語内の多様性はその整理と等価の命題である」

 字学の二度手間を避けるには字源系統を明らかにしてのちに、合理的に漢字を整頓しなければならない。社会では自動で実用の点から抽象が行われる。
 現代中文字も古文字も繁体も簡体も、いずれもみな日本語における平均体の洗練へ必要次第用いる様な大文学の構えが要る。

日本語論

漢字の発音・accentについては閑却してしまった過去。これは唐詩のような美妙な体系を享受するのを妨げる。
 大和言葉やまとことばとよばれたがっている体系は決してもとのことばではなく、統治者層がつくりあげた50音仮名への編成体制にすぎないだろう。ここから、もののあわれや大和魂という国学の論拠が単なる中央統制主義的Ideologieとわかる。

数理学

知識はエントロピーの減少である限り、科学体系は法則を示す数式の単純化に勉めるべきで、導出過程の膨大な説明は徐々に省かれなくてはならない。従って我々の知識は時代を経て増進することはあっても破裂はしないだろう。情報ならいざ知らず、知識は認識の抽象、即ち整理だからである。デカルトが近代代数学を確立したことはニュートンの幾何学的な方法論以上に、我々の科学を進展させた功績を持っている。なぜなら数式はむしろ幾何学の抽象だからだ。
 自然法則と知覚しても構わない現象群を事象として整理する営為が自然科学なら、我々の知識体系はその究極の姿として真理の数式を要求する。なぜなら我々は、恐らくは偶然に栄えた十指という地球人類の原理から興った十進法よりも普遍的で、単純な記述様式を持たないからだ。数学はそれ自体で論理構造の開拓となるが、自然科学は数学による基礎づけを結論方法として採用することで知識体系の一層の単純化に寄与する。
 未来において子どもでも、我々の今日平均文明以上の体系的な知識を有するようになるのは当然である。科学は整理され続けるし、複雑な過程は省略されその伝承能率は向上し続ける。画家が市販の絵筆を利用するように、科学者は既存の定理を体よく使用する権利を持っている。もし疑問があればその個別の検証に当たればよいのであり、馬の尻尾を追いかけるようなそもそもの始めから先祖が辿った全行程をくりかえす必要はない。丸暗記が非難される謂われはないのだ。もしそれすら不可能なら我々の小学校授業の過半はピタゴラスのおはじきを延々と続ける作業に終るだろうから。

学術論

猿相手に真剣に論戦を張る者も猿と呼ばれる。もし学者が真に賢明なら、真理に仮説の衣をまとわせて自在に舞わせたらいい。前衛芸術は歴史の向こう側にいる未来人類へ説明すべき。よって、傑作は仕事というより趣味として振る舞う方がずっと利口。作品さえ遺産されれば歴史はその偉業を評価せざるを得ないから。
 あらゆる審美意識は確立した時には既に過去のもの故、同時代を照準にした流行の職業作家はいずれもみな後世の笑い者となる、即ちサロンの戯け。
 ダ・ヴィンチが死の床にまで秘蔵したモナリザが従来の歴史的肖像画や神話偶像図といった説明従属の慣習を排した純粋な人物画の領域を開拓する偉業だった事は、後世から一瞥すれば明らか。即ち、同時代民衆に芸術家本人より正確な審美判断は不可能。なぜなら審美力そのものが独創的な制作の原動力に他ならない。
 歴史に名を留める芸術家の過半が副業や方便としての後援を経由したのは当然。もし職業作家があり得るならそれこそは俗物だろうから。
 理論文明たる学術こそは独創すべきで妥協してはならない。その政治・経済との癒着も害であって益はない。学術家は清貧でなければ歴史の前に無力を晒す他ないだろう。同時代内理解に満足する者は俗物と呼ばれる。成功者としての仮面は飽くまで道具であり、真面目には成り得ない。

安部前首相についての国策的反省

安部晋三氏の国家ヴィジョンには見るべきところも少なくはない。しかし哲学的根拠が不充分なのは疑えない。以下その分析。

 智恵と指導力はかなりの程度相関しているだろうが、カントが『永遠平和の為に』で言及するように、哲人政治家はありうべくもない。むしろ実践者として政治家は、飽くまでマキャベリ的であるべきでさえもある。
 もしあらゆるアートがテクノロジーの昇華ならばもちろん日本には科学技術創造立国ないしは工学改良の優等生を越えて芸術大国となりうる土壌はあるが、かれの『美しい国へ』に示された政治思想には国民芸術に対する批判的基礎は存在しない。むしろこの点については別によく売れた同時代の俗説『国家の品格』の方に端緒がある。ここでは日本国体の比較的な長所としての感性論が語られるから。尤も、戦前退行的軍隊教育説は凡そ戴けないが。

 その美しいという形容詞は単に、彼の政策の持つ曖昧さを象徴した皮肉としても受け取れるのが結果論である。
 本の末尾において日本風土へ美しい自然という表現をとることでしかないのなら、政策そのものとは無関係な言葉であったと考えるほうが正しい。氏はおそらく趣味判断に用いる審美用語を国体批判に宛てたことで、新保守主義の文脈を日本人の風情を好む民情において何とか合理化したかったのかもしれない。やはりそこに論理的根拠は存在しないにせよ、文学的には感得しうる方便かもしれない。
 だが閣僚の相次ぐスキャンダルによって急に降板しなければならないのは本志からすればさぞかし無念であろう。安部氏に真実の政殉職の大義があれば、再挑戦の機会は将来訪れるであろう。政治とは実践であり、従って現実的経験値が理想より物を言うのは当然でなくてはならない。

 私見では政策論中において、軍国復古とも国際的に勘違いされ兼ねない安易な自衛隊海外派遣の正当化と、すでに文明平均からすれば成熟段階にあり逆に資源少国の命運に関わる創造性の養生が要求されている現代日本人の教育の再詰め込み式化を除けば、近未来の国営に関してはあまり巨拷な誤ちはなさそうなものだ。
 むしろ理想として低きに過ぎるところも感じられ、江戸における天下泰平、明治における富国強兵、戦後における高度成長といった簡潔な激にまとめるくらいで良いと思う。一端自由化を極限化して事実上民間風紀が破綻してのち、反省と共に福祉建設を目指すべき平成の世ならば、協和超米といった開拓的理念があってよかったのではないか。それはむしろ覇権者との積極的な相務関係を国体啓蒙する役に立っただろう。

独行

我々は衆愚と真逆の進路を独行することで偉業を達成できる。

経済学

ジニ係数には配分時と調整時の違和が存在し、その運動間を測る新たな係数が発明されねばならない。これには微積分より流率法的発想が役立つかもしれない。かつ、自由と福祉の微妙に曖昧なジニ係数自体では困難な事だが、新たな係数なら理想的値というのが定式化できる可能性がある。
 これを仮に余裕係数と呼ぼう。余裕係数には固定的ではない、運動力のような特定の数次方程式の範囲で、絶えざる社会変動の最中の国民の充足感をある程度数学的に指標化できるかもしれない。尤もこのような幸福感はむしろ量的なものであり、必ずしも質的なutilityを意味しない。却って途上状態のハングリー精神やプロテスタンティズム、騎士や武士のストイックな道の中にすら活力から来る高い幸福があるだろう。従ってミル的な質的功利主義の立場から更なる指標検討が必要となる。だが、一国民経済の政治的調整の指針としてはある程度、ジニ係数よりそれは有効な筈だ。

ひま

ひまは地位より高貴である。理想の為の母体となるから。

勤勉

勤勉であることは最大の退屈凌ぎである。

2007年9月17日

国家当為論

一国の命題は国民多様観と平均衆度の類内高潮を両立させる双方に発揮しなくてはならない。
 それは極めて一部の異常な野蛮類を国民の反面教師として飼い生かすと同時に、類内最高峰の文明種を大切に育て、かつその大衆平均の値を階調の微妙と同時に世界内の標準以上に保つ便宜を要する。悪意や犯罪行為への制裁と名誉に関する報奨制度や心理作用とは、要約すればこの文明の普遍性と云えるはたらき。ひとつの独自宇宙的秩序を構築するのが国家の当為となる。

人類観

その莫大な試行錯誤損失も人類の幸福の為には相対善をかたちづくる。男女共同参画社会とは即ち、弱肉強食と適者生存を旨としたダーウィニズム社会淘汰の方便でしかない。不調和な家庭より生活能率に害ある形態はないから。
 人口が飽和状態なら競争は種内淘汰を指向する。社会的闘争の勝敗は明暗を微分する。そうして格差多様観と人類を離れた新種を育てる。この失敗が貧民窟、成功が文明である。

政治学

政体成長説。
 主権在民の元で行われる間接民主政治は永久に最善の政体というわけには行かないだろう。それは少なくとも悪くはない政治家を構成員全員の了解のもとで選出する、多数決体系の凡例に過ぎない。よってその本質はいかなる方策を取ってすら癒着を催し、漸時堕落せずにはおかない。世襲はこの最悪の結果として現れる。
 民衆政治がいずれもみな衆愚化に陥り壊滅する運命なら、その国家救済を果たしうるのは唯、王者のみ。彼は抜群の指導力によって民族のあいだから突如立ち顕れ、煽動家を悉皆征伐し、大衆からの圧倒的支持を得て新たな王政を築きあげるのだろう。それは民衆が崇拝を仰がざるを得ないカリスマ的な権威によって説明できる。
 権威とは覆せない負債の謂いなら、その様な指導者は何らかの傑出した業績によってのみ育つだろう。なおかつ政治が政治行為によってしか成り立たない限り、恐らくはこのような偉人政治家は政界外部からしか生まれはしないだろう。つまり権威の援用が王者を産む。
 あらゆる王政がまた絶対主義に陥り壊滅する運命ならば、又この様な王者の元で脱出された衆愚政治といえども次の段階では貴族政治への萌芽を残していなければならないだろう。
 もし選挙制度をとっていながらに王権のなごりをとどめた国家に幾分かの慧眼があるとするなら、王政の基盤を抜本しなかった保守性にある。その切株からは新たな芽が萌え出し、やがては実力者同士の貴族階級形成への枝を伸ばすだろう。秋が近づいてくればそれらの若々しい青葉も封建政体に枯れて豊かな実りとして民主革命をもたらすと共に、再び衆愚の冬へと向かって生気を養う準備にかかる。
 政体循環の仮説が正しければ、人類の政治とは絶え間ない新陳代謝の成長に他ならない。その結果、文明そのものの段階は向上して行く。

2007年9月16日

業績

ある人物は職業ではなく業績で評議されねばならない。ダ・ヴィンチが自然科学者か軍事技師か画家か伽か問うことは馬鹿げている。

信仰

善を志す者は親しまれ、悪に堕す者は疎まれる。

2007年9月15日

性別役割分業の合理性

少数派の権利平等という面だけから、男女分業の効率を全否定する極端なfeminismには哺乳動物の理解や、文明化への本質的敵意がみられる。これは特にAmericaではげしく、社会規範化された中世社会秩序への反動にすぎないはず。
 男勝りの夫婦がそうでない人間を駆逐したがる光景は、総じて社会Darwinism内にいる熱狂的feministが人類への害意をもっている証拠だ。封建道徳にみられた保守的男女観が年少者に教育されるのは、性差論からも、貴族にとってのぞましいと再認識されるべきだろう。そしてこの面から性別役割分業の合理性が安定した社会にとって基礎的と理解されていい。

 次の様な見解が中庸的。仕事する高学歴女性は男性的存在として扱うべきで配偶者に向いていない。男性なら家庭的で貞淑な女性を伴侶にすれば良い。家庭より仕事タイプの女性とは離婚可能性から言っても婚姻関係に陥る価値は大きくない。

工学

熱効率の向上には限りがない以上、熱機関の改良はtechnologyの目的として第一に置かれる。

義務

人生とは地獄であり、生活とは地獄を生き抜く試練である。いかなる幸福にも救済なし。人間が自殺せぬ理由は理性が発狂しない理由に等しい。即ち決断の遅延である。これを義務と呼ぶ。
 我々は義務の為に生き残る。義務以外に生き残る理由なし。

2007年9月14日

恋愛と労働

人へ恋愛(生殖過程の美化した用語)を快楽として貪らせるのは単に、労働者階級を量産する便宜に過ぎない。

自民党総裁選について

私はアルツハイマー病を揶揄した麻生氏を信頼しない。人間は心情に無き言葉を持たないし、尚更発言はしないものだ。

 平均文民より倫理に劣る人物を首相に推す政党が与党であれば国家は亡命したも同然である。

現代政治批判

間接民主主義とは民主的選良による間接貴族政の意味なのであり、
世論の最大公約数を民意などと煽って直接ぶら下がり質疑する現代世論政のあり方は根本的に誤っている。

政治家は民意より党意、尚更我意を優先させて良い。それでこそ主権者は雇った指導者の能力を買い、正しく使役しうるのだから。
『孫子の兵法』を参照せよ。将軍は国家存亡の為には仮言命令に背くも善なのだ。

戦場

人生は戦争、人間は戦場、破れ去れば死、勝ち残れば生。一身の頼りになる人物この世になし。唯、己独りのみ。死して悔いを残すなら生きる意義なし。

物理学

以下定義。縦波横波は混同し易く不便かつ危険なので、疎密波と振動波という用語に改良せよ。

2007年9月13日

学生制服廃止論

制服がなければ敢えて服装において乱れる理由すら無くなる。一切の猶予なし。この点で学生に制服を科する意義皆無なり。

哲学も科学も文脈の違う文芸のみ。

自由民衆政の結果

女を多少あれ低質な労働力として男性代わりに使用したのは繁殖活動の抑制という他如何なる現実的結果もなかった。人口爆発は国家を亡ぼす故に、だろう。
 民主主義とよばれるIdeologieの原理は自由経済下では単に、皇室の様な大資本家による少数派支配を合理化する方便として機能してきた上、その最低限度を保障した所で構造自体に根本相違なかった。

東京人の観察

小田急線。人前でベタつく女。品の悪いカップル。知能がなく、猿と何一つ変わらない。煩く言葉を喋る分なお悪い。こういう愚物を低級労働力として酷使に何一つためらう必要なし。繁殖の奴隷。脳骸内に理性無し。

2007年9月12日

文学論

現代中に下等文士女史多し。されどあらゆる時代にも多かるべし。俗物の平均は一考だにすべからず。世俗間の無理解、却って後世名誉の基を為す。

相撲協会言論弾圧事件

日本相撲協会、北のうみ理事長、マスメディアで言論人を抑圧す。2007年9月12日付け情報参照せよ。

 曰く協会批判した人物の取材証没収す、と。官庁直轄の協会にては如何なる組織統治も不可能の義なり。もし改善の道あらば政府と一切分離し民営化の方途に尽さざるを得ず。応じて唯一の伝統芸能存続の方便たるのみ。

2007年9月11日

思索

匿名制度を濫用した2ch、Ameba piggの様な言論slum mediaは潰すに如くはない。

 人間には完全に匿名的な発言は不可能であるし、尚且つ、責任の範囲にしか自由の善はありえない。

2007年9月10日

肩書き

馬鹿には近寄らない事。近寄らざるを得ない場面も最大限に避けるに如くはなし。人生時間に限りあり。
 肩書きは仲間を分ける方便となる以上、利用価値あり。普段の人間の分類には外的付随物しかなし。

東京の観察

五反田、東急池上線、ホームの先端から売春罪業の巨大広告が誰しもの目に飛び込む。五反田人ほど無神経にして下劣な人種なし。この様なslum地帯にまともな人間は近寄るべからず。

2007年9月9日

個体

彼らが文明を築くのは宇宙にとっていかなる意味を持つか。単なる自然に理由なし。人間より愚かな生き物なし。死ぬ事まで知ったが故に絶えず恐怖心から欲求に逆らう。繁殖活動より文明建設を主眼にする者まで育つ。動物ながら動物らしさにあらがう。本能を抑圧し、集団統制を試みる。だが、大体は失敗する、戦争による組織崩壊。人間は万物の霊長に非ず。単に偶然から天敵のいないわずかな期間を永遠であるかの様に思い込み、調子に乗る。地上の権威を宇宙に延長して恥じぬ。ほんの小さな脳骸で。お前達が偉大だと信じている文明のいかに滑稽な事。単に巣窟を山ほど築き中で知能を遊ばせるだけの事なのに。どんな個体でさえも自死に至る。

2007年9月7日

台風

台風いつもの街を濡らしていく

2007年9月6日

文芸

文芸は科学に優る。それは普く人間を引き連れて行く。

2007年9月4日

品性の改め

人間はいずれもみな従前にまさる道を行くよう仕向けられ又実際余程の失敗がない限りそうなるものだ。
 しかしその歩みには努力格差がある。よって、このまさりかたの中途で選択を働かせるに、人間の品性改良へは人々に努力の習慣をつけるが良い。うまれつきすぐれた者は少ししかそれをてらわないが、最大限の努力でそうする者も似た状態をさぐるだろう。

2007年9月2日

政道論

自由偏重の民主政体は単なる国際競争の方便であり文明の目的ではない。それは持続不可能であり、遅かれ早かれ衆愚政へ退廃し、外的侵略で亡ぶ。文士はその中で現代政権死後の新芽の養生に充分準備しておけば良い。自由国家の老廃そのものは避けられず、寧ろそれこそ新たな再生の試金石となるだろう。持続可能なのは民主社会主義、又それを通じた中道政体であり、既に北欧三国では原型が実現されている。
 早晩アメリカの世界史中に必然な崩壊を傍目に看ているだけでは済まない日本に於いてさえ、「最先進国のモデル」へ向けて自らの脱構築を計る方法は存在する。それは彼と是、不良アメリカと善良北欧を明白に比較して、民衆へ近未来の模範を選ばせる事だ。
 強国追従は狭くなった地球で和平を執る為に最悪のシナリオの一つとなる。なぜなら覇権者の自由主義暴走とは単なる国際絶対王制でしかなく、いずれテロリストに革命される。破滅を避けるには当の王には気づかれないようにそっと、悪友の集会から徐々に足を洗うしかない。密かに精選した後発民間へ新規足場を築き上げたら、傲慢に陥った棟梁を革命する瞬間を辛抱強く待て。官尊民卑の悪習を一掃するには絶滅的な体制崩壊を一度通過した方が良い。
 現代人は恰も知らぬ振りで覇権者の犬たる日本人官僚を騙し、民主主義を闇雲に狂信させて自らの国家を破綻させれば良い。
 改良主義化はその後で充分だ。暗喩すれば、悪貨を根絶しなければ新通貨を流通させてはならない事。

 さもなければ単に国体退行に終わり封建体制は復活し、国寿は致命的に侵されるだろう。例えば現代中国が封建的中央集権体制を継続したまま民主化の振りをしたことで却って国体を虚弱化し、建国50年足らずのわずかな寿命をますます縮めた様に。

倫理学

本能も無意識の構造的損得勘定に基づく利己心。その顕れが文明内理性と対立均衡するのは単に生存闘争特性の射程差。男女性別についても同様。
 本能が昇華された感情という特徴が人類の近い利他性をつくる。理性が遠いそれなのと働きは等しい。
 究極に理想的な人間は本能と理性を高い次元で兼ね備えるだろう。両者は矛盾せず調和する。博愛や慈悲、という言葉の意味するところがこの過去の人類がうみだした例だ。

関係

もし人間関係を破壊したくなければ家族や友達とビジネスを始めてはいけない。

国体論

官民調和は国体の理想だが、両者は癒着してはならない。

忠告

親しい友人の真剣な忠告ほど人生の岐路で指針になるものはない。

2007年8月31日

東京人の観察

煙草を吸う女。こういう女から産まれた子供は悲惨だろう。生来不健康のハンディキャップはないから。

2007年8月29日

風紀

もし日本の市民をさらに進化させたければ、古き良きイギリス風の純愛社交の場を構造づける。プロテスタンティズムを消化して武士道と結びつける。精神至上主義を文学的に回復する等が有効だろう。

2007年8月28日

独歩

獣から遠ざかる程、人は貴い。人間には高尚な生活以外に指すべき目標なし。どの代であれ、同時代人はまともに相手にすべきほど立派ではあり得ない。独り歩め。しかしながら、既存した伴侶は愛せよ。

世の中

経験程人間を愚鈍へ誘なうものなし。なぜなら世間には俗物が住んでいるのだから。人生経験は多彩であるべきではない。もしそうであれば感性は摩耗するだろう。可能なかぎり白紙であれ。と同時に世知に長けるよう工夫を尽くせ。
 単なる知としての世間と世馴れとは人品をはるかに隔てる。君が雅たりたければ最小経験と最大知識とを目指すのが良い。あまり世に出るな、隠れて暮らせ。知り合いを増やすな、自由時間を確保せよ。

2007年8月27日

信仰

愚民は純潔の意義が道徳にある事を知らぬ。
それが故に純愛が単なる無粋であると思い込み、悪徳に憑かれた子孫もろとも身を亡ぼす。

君もし幸福に成りたければ純潔を守り切れ。
異性と婚前に交わるな。
もしこの忠告を聞き逃せば、お前達の仲間は必ず獣類の地獄へまっ逆さまに堕ちるものだ。

2007年8月25日

性愛論

一夫一妻制度に適応しない個体は淘汰されて行く。人類は種の最多種化の為、如何なる個体へも繁殖の機会を提供しようと企画するから、害他的変異、つまりそのくみあわせをへらしてしまう姦淫を行う浮気者と、場合によっては同様の業を制度化する多妻主義者だけを厭う。
 地球文明において人類個体が最高度適応的かは、子孫養育を含める限り配偶の時代内最適選択に因る。彼らにとって性格が婚姻の為に最大の要因である理由はそこにある。そしてそういう性格は精神知能の発展確保によってしか充分育てられない。なぜなら身体容積の問題から、学習動物としてのみ人類は産育を可能にしている。
 性格が肉体差に原因する以上、容姿自体は性格の方向づけへ利用される。我々が好んで性選択する個性とはみな理想的性格を目的にしている。肉体は性格の象徴である。逆も又然り。ここに我々は古代ギリシア的な精神と肉体の乖離を同じ理念へ調停することができる。魂と体は同じもの、つまり形質へ異なる見方をしている丈。
 自然と制度の均衡は男女各々における理想的な中庸を目指して性淘汰を行う。もし進化の必然があるなら理想的人間についてのみだろう。暗喩すれば神の似姿として人間はあるべくうつくしい。

2007年8月24日

社会的幸福論

幸福そのものは人間の調和を意味する。社会と自然の調和が人間を築く。我々は獣性から神性へと絶えず導かれる。人間には度合いがあり、個性はその多様観をつくる。しかし如何なる個性と雖も精神向上への漸進にある。知能は人類を獣類からしかと見分ける唯一の特徴である。従って精神性も知能の範囲にある。それは彼らへ特定の性格を持たせて遠類の不条理から離脱させた。
 人類は社会という新たな猿山を築く。そこに不条理が存在しない訳ではない。唯、精神性の恩寵によって生存闘争の不快な面が緩和されるに過ぎない。社会契約により人類は同類殺害を集団的に統制することにさえ成功した。
 だが実態は彼らとて獣類から完全に脱化した神類ではない。大脳は新皮質を末梢神経として構築した。それは聊かも基幹神経としての旧皮質の消滅に至って居ない。彼らの社会的拘束の一切を外せば人類種から狼少女は育つ。言い換えれば文明度は社会的にしか量り得ない。我々の社会が人間に幸福をもたらす唯一の手段なのだ。
 絶えず脱構築し改良して行く社会構造の文明化が人間を救済する方法であれ。それは自然の悲惨な混沌を不条理として抑制し、理想の漸近的実現へと絶えず時代を導く。

文明論

文明化が野蛮からの脱出である限りそれは知能に原因する人間の精神化だろう。
 福祉、つまり最大多数の最高幸福を達成する為に、知能あるところ世界を文明化する。それは思想の合理化により社会秩序を建設する。
 自然は究極のところ消滅しない。我々の作為はすべて自然からの抽出に留まる。それはentropyの抑制によって生活の調和を目指す。

2007年8月23日

実践理性と死

もし理性という働きそのものからの解放を求めるなら自殺する他にあり得ない。
 義務がかれを生に結び続けるのは定言命法の故に。従って理性は自死を退ける。
 生が義務の声を遂行する限り、我々は絶えず神格へ導かれる。
 人格とは当為へ向かう永久の努力のさなかにある。正義はその適応性に伴ってのみ死を省みない。

定め

自由意志は定めある限り成立しない。定めはあまねく往き渡る。我々の演技は定めの完成の為に繋がって行く。

聖性

権力構造は同時代的な作為である以上、理想趣味の為の利用価値しかない。政治家はこの意味で実践者としてしか存在しない。些かもその価値を減退する内容ではないが。
 アリストテレスの幸福主義が人間の究極の結論ならば、我々は理性に従属する生命体でしかない。実践家に対してであれ技術家に対してであれ、理論家に対するのと同等の地位が認められねばならない。理論そのものは聖性の側面でしかないのだから。
 幸福の相対性は適応行動の聖性に由来する。

人類文明論

人々は宇宙の形態の一類に過ぎず、自らの集団生活を保つ為に文明を営々と築き上げる。彼らの構造はこうだ。しかし、なぜ君の魂はその中に含まれてしまったのか。実存は単に偶然でしかない。だが、その偶然は一度起こった以上何度でも繰り返される。人間は永続する。それは精神という仕方で永久に生き延びようとするアキレスに似ている。すべての文化とは哺乳類の繁殖活動から離脱した個体群による架構。人類の貧弱さを省みれば彼らは猿類界の敗惨者だったが、同時にその逃避によっていつしか新たな一族を物す。人類はそうして成立した哺乳類の一類だったし、これからも命ある限りそうだろう。果たして哺乳類自体にどのくらいの生存力があるのか我々は究極のところ想像的にしか予測できない。だがその想像は彼らに信仰の基礎、当為ないしは理想を与える。文明は理想に協賛する一族を新たに人類内に建築しようとする。文明人類とは人類そのものと次第に区別される。いわゆる文明国とそれ以外との格差の両端は永久に縮まないだろう。両者の中に存在している最高度の知能とチンパンジーに類似した野蛮人との生息条件とは殆ど同じ生物だとは感じられない程に異なって行くこと。
 全ての人類に対して文明化を偏見するのは過ちでしかない。我々が各地へ分化し始めた時点で我々の運命の過半は予定され続けて来た。やがてそれは人種と語族となり時に民族意識となり国家となった。そして進化ならぬ分化は際限なく進む。真を目的にする地域住民と文明をそうするものとでは文明自体に性格差が生じる。例えば日本語は総alphabet化されていない。彼らにとって漢語謂が伝統的保守性だから。とすればおのずからローマ字への表記用記号の統合にも速度差が生じる。この速度差は分化の一形態に過ぎない。言い換えれば文明度は構造的であり、決して一様ではない。彼らは実際には多様系を目指すのであり、単なる文明極点を志向しない。
 どのような個性も多様観の一部分。統一的な文明極点は理想的にしか想像できない。それは如何なる理性的存在者についても同様。人類が普遍的と見なすあらゆる作為は地球構造に支配される。従って彼らの最高峰文明でさえ決して宇宙多様系の建築ではあり得ない。彼らは単に制度と分化の間を行き来する過渡現象だ。精神に対する普遍視は不適当。それは我々の肉体に由来し、肉体固有の限界な知能を超えられない。人類が永久に無知たることを免れないのは彼らの精神が肉体に繋がれた現象だから。彼らの現象界に対する認識の拡張; つまり科学がどの程度成功して行ったにせよ、理性の自己目的性は天敵不在の状況に依存している固有の奇跡に過ぎない。
 芸術は文明を築く。あらゆる作為が自然に対するentropy減少でしかあり得ない以上、我々の生存価値は多様観中の動態を増進させて行くような再創造の永久継続にしかない、我々に未来を開示する展望として。比例的な整理による秩序化でさえその為に用いうる手法の一つに過ぎない。

男女別義

数十億年かけて育んで来た地球生態観が朝礼暮改なしうる筈はない。よってfeminismは単に方便の増長をもたらすに過ぎない。白人社会で男女同権が適応的となったのはアメリカ文化のわずか200年前後の影響波に過ぎず、いずれ矛盾の露呈により愍滅されるだろう。
 市民化の方便として女をおだてる手腕に長けることが近代文明に於いて家族結合の知的水準強化に応用できたに過ぎない。もし博士の女性を未開人男性と並置すれば我々は格差が後天的に仕組まれる意味を悟るだろう。社会秩序に於いては男女の別、つまり性的異型がその単位時間分の配偶多様性について最も能率的なのは問う迄もない。ここへの分業は地球生態が育て得た貴重な天分であり、単なる平等天賦説の前には比較しうる真実ではない。以上を知り哲るには同性愛生物(雌雄同体)が総体として決して複雑な組織を発達なし得なかった史的事実を観察せよ。
 文明は雌雄を含むより多彩微妙な人間関係を養成する。それを単なる地球生態覇権飽和的退廃のせいに帰することはできない。人類は種の最大化を通じて社会を細分し、転回抱擁し、やがてはその中から宇宙人類の進化を誘なう。

2007年8月22日

芸術論

文学に於けるrealismは絵画や彫刻に於ける場合と同様に幻想に過ぎない。芸術についてrealismはillusionismの換言である他ない。
 幻想芸術は現実の側が相対して悲劇的だった場合には慰めのため必要だろう、即ちcatharsis。
 文明の展開に従って現実の中の極端な悲喜劇性は減退して行く。代わりに芸術は事物の抽象性を要求する。それは彼らを取り巻く現実を幸福の次元で表現する様に求める。
 あまねく芸術についてrealismは抽象、継いでidealismに向かって進化する。すべて芸術の理想は絶えざる抽象によってしか表現できない。
 自然と芸術との間の調和は人為による抽象に否応なく忍び込む自然に関してのみ理想的である。

思潮論

学術は文化史脈上にしか実在しない。それは見えない人々にとっては生涯見えず、見なくて済むものでさえある。
 文化史脈は世界諸語族の連想形式に由来する。それは伝統的なもの。例えば哲学は意味に於ける、文学は記号に於ける史脈を抽象する。それは単なる言語学の命題ではなく、個人的世界観について。科学の地位が向上する事は我々の中の知性を重視する人類思潮の謂い。それは前二者と同様に認識を抽象する。哲学は理性の、文学は感性の人類思潮。
 又、科学・哲学・文学とは文の領域傾向に過ぎず、その境界線は時代思潮の偏見でなければひたすら差延の合間にしか引き得ない。

2007年8月21日

脱自由主義説

人間の世俗的価値は肩書きにしか存在しない。
何故ならそれは多少あれ客観的な身分証明書だからである。

権力構造が与える名分は支配者の権威を強化し、又個人にそれへの従属を強いる。
民主主義社会[と現代を我々が知覚する範囲]に於いては、何らかの主権以上の権力者がこの賞与と服従の構図を利用して「政治」を行う。言い換えれば名分とは如何なる物であれ政治権力なのである。

 爵位の拒否は政治権力の否定である。
我々は主権に対してすら拒否権を持たねばならないが、自然権の放棄という言い分を伴って地球中の如何なる私生児でさえ認知され次第一国民たらざるを得ない。

「機会の平等」は民主主義社会の前提とされアメリカ合衆国憲法に嘔われた。
しかし実際に人間は扶養権益の枠内で育つのであり、結果として成人に至る頃には再出発点に多大なハンディキャップが存在するのが普通である。
そして現代先進国で顕著な学位制の確立は益々封建的身分の世襲を誘引して行く。


 我々は「結果の平等」を否定してはならない。
それは少なくとも機会の平等をより厳格化する為にさえ必要なのだ。
 調整は政治権力の命題であり、しかもそれは他ならず名分によって図られるべきだ。


 日本企業は寡頭競争を合理的に淘汰する為に学閥差別を応用して来た。
産業体制が脱工業化を果たすに従って異なる種類の能力が要請され、結果として雇用の流動と差別の緩和が実現されて行く。
 しかし学位制が市場経済の知的能力の尺度に援用される限り、根本的な差別は撤廃され得ない。

世襲制は中庸を守ってのみ世代間家業の蓄積なる有効性を保つ。
学位制の脱構築は『奨学制度の充実』によってしか計り得ないだろう。
 それは単に個々の大学経営に依存するだけでは調整範囲について不充分である。
従って国家及び国連権力をこの為に再構築し直すべきである。

いずれ自由偏重主義には矛盾があり、様々な不条理の露呈が致命的になる以前に我々は民主社会主義的調整の政策へ準備を怠ってはならない。

2007年8月20日

生死

全ての人間は時を経て死ぬ。その人に価値があるか否かは他の人によってしか測り得ない。人は人間にしか存在しない。意識を失う瞬間が自然に訪れるとは限らず、人間は常に生き方の表示を延長させて行く所にのみ存在価値を見出す他ない。生体ある限り如何なる栄誉に対してすら欲望の源が満たされる事は無い。
 全て人間は相対的にしか人間たり得ない。他の個体に比べてのみ主体性は認識される。且つ人間は差延し、我々は自らを絶えず再生させる性格のうちに自分らしさを定義づけて生き延びる。彼らに偉大と凡庸とが在るならそれが欲望を他個性相対的にどう導き得たか次第だ。民族や国家についてすら同様に。人類の全体は秩序ある平和の建設を要求している。少なくとも地球儀の範囲でそれに比較的貢献為し得た個性を我々は偉大と認めるらしい。
 理性的生命としてそれだけで構わない筈が無い。我々は真理と名づけた定式を思想内に抽象する。では真理に近い思想の持ち主がその他の人間より優るのだろうか。
 時代思潮のさなかにあって無数の思念がうごめいている。彼らの内に最高度の聖人と最低級の俗物とが共存する体系は社会と呼ばれる。人間の生死は社会にとってのみ存在する。

2007年8月19日

文学手本説

文学は聖書と雑誌の間を媒介する中間的書籍で、その衆生啓蒙性にのみ価値がある。世界宗教無き蛮族は何らかの信仰なしに心身健全を保ちえない。よって社会環境の編成に伴う新たな手本が需要される。

 文学は社会が存続する限り生き残る。それは傑作に至り識字大衆の文明度を象徴する。

 カント的道徳神学が必要ならばユダヤ教・儒教・神道・ヒンズー教などの少数宗派はより巨大な架構に含まれ、一神教の単純さへ回収されて行くだろう。「無形的唯一神の信仰」は有効期限の無い保存性に於いて専ら異文化間の通則を得る為に便利故。
 仏教の本義に於いて暗喩的神格概念がなく、純粋に形而上的な縁起法則のみが信仰対象に崇められているとは、それが一神教の次段にある実証宗教の原型である事を示している。天地教が神を置かず、道徳因果のみを抽出した信仰な限りそれは未来科学とより良く調和する世界宗教となるだろう。仏教は天地教に包含される。なぜなら仏道が抜苦与楽すなわち慈悲福祉を志向する以上、その究極は中庸善行の自律的義務付けに迄還元されて行く。それは一神教の当為と合致する。

 文学は宗教の能率的伝達について価値を持つ。文芸上の真は非科学的であり、単に感覚的観察に留まる。故に時代変遷後にも価値を保つような作品とは啓蒙的歓待の書に他ならない。その目的は最大多数の最高啓発にある。文芸は本来文明娯楽化された教科書だった。
 辞書は語義を列記してあるに過ぎないが、文学はその文脈づけの様々な手法に則り、暇人たる哲学好事家を超えて万民へ百科全書を通読させえる。

Feminismの考察

自然が分け与えた性別の理由、彼らの分業の用に足る様設らえられる。
 突然変異無き限り女性に、男性以上の心身能力を発揮する事への生来的制限が家庭内外での協業を計らせる。適度な男女分業がない社会組織では能率は低下し経済も衰微する。
 社会の動きはこうして、遺伝と獲得の両形質面で適宜に男女差をつくろうとしてきた。単にどんな内容を伴う性差なのかが文化面でとわれるのみ。

思索

強者の地位を狂気から救うものは喜捨のみ。

2007年8月18日

隣国

日韓の根本相違は神道の裏支配しかない。

商品開発

アルコールなしのビール――都会向け健康飲料として。

2007年8月17日

思索

真善美は聖の側面。それらの三身が理想を創る。

聖性の側面

科学・哲学・文学とは文面の抽象‐具体度の偏差値にすぎず、且つその境界は厳密ではありえない。知性・理性・感性とは各々の文化傾向のいいかえ用語にすぎず、優劣ですらない。それらは単に思考性質の三種であり等価と云われる。
 我々はかの三頭を高める務めを負う。それらが融合する事は必ずしも正しくなく良くはない。

地政学

歴史は風土へ時代様式を降らせ、混ぜ合わせたり押し流したりする。だが固有の命脈は世帯を超えて繋がる。種は適材適所を択ぶ為に定着しなければ引っ越しを繰り返す。遊牧民族に於いて土地は血統へ帰納される。

2007年8月16日

文芸論

文の進化は共同化の進化に並行的。それは文面に於ける抽出であり、文通という芸を風雅にする。
 もし記号を含めれば学術とは全て文の組み合わせにすぎない。我々の認識はこの文学の指導に従う。なぜなら確定性、つまり検証可能性の高い文面は口頭よりも普通、抽象し易い。

純潔度

例えば古代日本の社会に於いて、階級や地域に応じて男性の貞操が差ほど重視されなかった背景には地政学的理由がある。それは各国で王権の世襲状態にみられた様に、多妻の種を通じた繁殖速度差により群れ権力を寡占しようとした絶対主義の必然的独裁にともなった文化で、世界宗教からみれば退廃だった。現代でも猿達と同様、商業的大都市圏にこのなごりがみられる。

 近代化が昇華を方便として内発的な発展を志向し、充分な人口密度によって以上の構造から自らを解放しようとしても不思議はない。所がこの様な作為が全ての風土で完全に成功することはないだろう。文化律は、よく特定民族的でさえあるからだ。

 日本人なるものが再創造的な文化規制によって恋愛観念を消化したにせよ、その根本義は独特の慣習へ回収されて行く。夫婦の大倫は男女相互の貞潔によってしか充分に図られ得ない。それは独裁化した天皇家をはじめ古代のどの低落しきったSodom的倭へさえ正妻と他との差別として婚姻関係へ要求されて居た。そもそも性愛倫理の要求は社会秩序である。従って「例外」として一部の絶倫へ白眼視されていたにせよ種に於いて夫婦一対は幸福に値する対称形であり、そこで純潔は主要な善であった。

 婚姻前後に関わらず、他ならぬ一人のみへの献身は男女の関係を信仰の次元に高めた。それは互いの誠実の絶対的な信頼による不即不離の運命共同体を形成せざるを得ない。
 社会階級は経済的偏差によって国家人倫の大本へも微細な民度を配分する。倫理に於いても又、同様に子供の数とその育て方に千差万別の格差が生じる。それは来るべき新たな変化に満ちた時代への適応の準備として蓄えられ、微分されて行く。この流れが逆しまになるのは革命があった時を除いてあり得ない。民族的統一という幻惑の煽動される時はその致命的な危機より勝るはない様に。
 もし純潔が善の規律とされるならそれが階級秩序の方便となる。ある生産制度下で支配と被支配階級の頭数を統率する為にも、倫理は存在する。

 純潔は度合いのみならず尚更信仰を要請する。意思に於いて裏切りが存在した際には既にその定義は失われてしまう。

2007年8月15日

東京文化の観察

電車内にて人前で化粧する女。低脳をみせしめにするための儀式。

人は自分の人生を択ぶ。教養の程度が愛憎を図る。彼らの本性は世界精神に規定されているのに。生存競争、世代交代、どこ迄も終わりは無い。辛く長く、意味も無く、人生は丁寧に束ねた光のように儚い。遊び戯れて死ぬるわずかな間を延びる現象。追い風の為に向かい風の為に棚引く祈り。命。

路頭

近代が引き裂いた二つの世界の中をさまよっている。人類の生活、彼らは境界を侵し、やがては無に還る。日本人は他のあらゆる西洋人と同じく、別の仕方で愚かしく尊い。だがその為に何があるだろう。他の東洋人も何も違いない法則の元に生まれていた。進化の偶然を利己主義に引き付ける丈では誰も孤独から脱し得ないのに。孤立して在れ。いずれ全ては未完なり。

2007年8月12日

戯曲

あるせりふ

・登場人物
青年 独白する若者

・場所 東京都内の電車
・時 午後

青年 世界中に女ほど愚かしくみにくく馬鹿なる物なし。電車。真夏。女が子供のまえにも構わず男にベタベタよりかかる。拒否せぬ男は愚鈍の模範である。女の数を減らす事、女の人格を抑圧する事は地上の秩序の規律である。サルと何一つ変わらない劣等生物め。

(客の視点が乗った電車、停まる。風景が流れて、並行していた向かいの電車の窓から見えた青年が消える)

2007年8月11日

武道

常に人を打ち倒しえる姿勢を備えていなければならない。人に打倒させ得るが、自らに打倒できない場面に究すれば補佐するか、退け。

配偶論

自由恋愛の奨励が即風紀向上をもたらすというのは誤解なり(例えば福沢・漱石)。結婚とは偏に経済的担保の共生契約に過ぎず。恋愛とは目的に非ず、その契約制度に期待された自由な配偶選択の機会幅已。
 どころか、現に抑圧の意図的に解除された恋愛環境に於いて、却って猶予の延長はその退廃をもたらす。彼らは性愛を悪戯けへ弄ぶに過ぎず、結局社会的生産力へ直に繋がらず。出生率低下と離婚率上昇。

 もし風紀自体を向上させたくば、自由な配偶選択の奨励と両輪に家計を潤す経済体制を整えざるベからず。かつ、逆説すれば君経済的成長を見込めぬ時勢と察すれば寧ろ風紀の厳粛に孜々努めざるベからず。
 これ恋愛乃ち自由配偶選択と家計の秤なり。もし恋愛を解放したくば単に家庭を築く家計を潤さざるベからず、又既に家計を潤さば風紀の厳格を社交に浸透せざるベからず。衣食足りて礼節を知る、之又交際の発展に関しても同様。

2007年8月10日

日本の徳

中国を含むアジア連合を避け、アメリカとカナダを含む太平洋連合に協賛する方がどれだけ世界史に福祉あるか知れない。

近代文明論

知性、理性、感性はそれぞれ理論、実践、技術すなわち真、善、美のための知能特性に由来する。科学、哲学、芸術はこれらの文化。私はこれらの文化を総称して学術と呼ぼう。学術に於いて三権独立は必然となる。
 近代文明人は学術、政治、経済という自律すべき三権の調和を国家運営へ応用する。それらはやはり同様の理論・実践・技術の組み換え構造と考えられる。もし国家連合が可能なら、以上を考慮して学政経の三位を国際的に建設しなければならない。また少なくとも近代政治に於いては、理論・実践・技術に当てはまる立法・司法・行政のいわゆる三権分立が準備となる。
 国際連合が充分に機能するには更に経済上の三権に均衡がはかられるをえる。これは理論・実践・技術にあてはまる家計・政府・企業によってはかられる。家計は消費を、企業は生産を、政府はこの両者からの市場によってつくられた配分のかたよりへの調整を追求する。国家連合間におけるこれらの自律した平衡をはかるには国際市場への適度な介入が必須となる。偏った超大国覇権の打破は集団制裁の国際包囲網によって可能だろう。

文学論

文学とは合理美の抽出。それは多彩性の作為と同時に文明の便利でもある。文体と文脈の揚棄が傑作を生む。教養と天才は不可欠であり、名品は万世を啓発する古典となる。文学は世界観の見極めによって未来文明への布石となる。最高傑作已が聖書として読み継がれる。我々が娯楽としての文芸を弄ぶのは審美淘汰の便宜に過ぎない。
 どのような書物と雖も最大多数の最高啓発則ち救済を目指している。文芸が哲学より尊いならその大衆性に因る。聖書が科学書より貴いなら同じ理由から。文学は聖書の更新。それは旧典を新たな智恵と折衷させて時世へ翻訳する文化技術。よって文学は宗教を土台とし、又その真理を抽象する。
 救済の度合いに応じてのみ文学の偉業は量られうるだろう。時代を通じて古典化しない明文こそが万民の参照に値する。宿世すくせを越境し続ける経典は古今東西人間世界の真相を穿うがって、理性的存在者の宇宙観へ仮設の信仰方針を与える。
 全ての明文は考えのかたちであり永久に聖書の完成たり得ない。文字に付随した観念だけが理想の契機として重宝される。いずれ一文字で全知を表現する迄、文学は続く。その大衆部を文芸と呼び上座部を哲学と呼ぶ。どちらも文語を通じた聖書の更新という目的に於いて変わらない。科学は数字を含む少数記号を利用して哲学すら抽象化した文化だろう。この方法で現行可能なのは上座部の内、最高峰の知識人を宗派教化する事のみ。科学は知性の宗教。その普及は閑暇への適性に依存する。よって風光明美な涅槃寂静で理論生活への宗教寛容がなければ、比喩の具体性を逃れきれない文学に比べて完全に抽象化しうる科学は一部の特権選良にしか共有される事は無い。いわば科学は上座を文学は下座を救う舟となる。それらは何れが欠けても人類文化を形跡しないだろう。
 科学、哲学、文学は近代迄地球人類文明が育み得た三位一体の活字文化だった。我々は感性、理性、知性という三つの特性をこれ等から成長させる事ができた。そしていずれの特性も近代文明にとっては不可欠となった。

2007年8月9日

創作論

芸術とアカデミズムは相反する。

数理学

宇宙の理由を探ることは数学の手段化を伴う。しかしその認識の限界は同時に手段に在る。総て宇宙論は何れもみな漸近的仮説に留まらざるを得ない。智恵の泉は学究過程の厳密化中にしか無い。物理は学び得ず、思想体系に参加しえるのみだ。しかし我々はこれらの体系を完成へ向かって永久に論理更新させて行く使命を負う。
 理性人の命題は真理の追求にある。真理が相対的にしか認識し得ないにせよ、我々が真理の確律を相対的にも認識しうることは則ちそれを知る経過を意味する。知ることは働きである。全知とは固定した状態では無く、知性の漸進性にとっての進化目的に他なるまい。
 源は果てについての思考と両輪されねばならない。もし片側だけ知り片側を知らない場合があれば、我々は宇宙についての概括にさえ達していないのだ。
 数学しか絶えず積み重ねて学び得ない。数学は我々現代人類が創造する唯一の科学言語である。

2007年8月8日

文芸論

小説は民族史を物語る便覧として役立ったが脱構築思想以後最早その国際定義は無い。語族は国語から解放されたと考えて良い。我々は遊民となる他ない。
 国際文学は近代小説の破格からのみ出発する。現代において私小説すなわち単なる自己中心的現実主義の文化的意義を主張する者がいればお笑い草にしか見えまい。文学的キュビズムは多視点を通じて実存主義的通弊、狭窄な自民族中央史観を悉く排斥する。
 国際遊民は多言語使用者としてしか文芸を創作できないだろう、たとえ翻訳文体を介してさえ。
 現代小説家は多声な物語を折衷する作為を通じてのみ、同時代に献身する筋書きを見つけ得る。振り仮名は詩人の手法であり、文脈の越境は複線的明文化に由る。それらは語句語法や語感の定義のみならず心情を多語族へ伝承する。
 現代文学者の第一声は国際人としての哲学でなければならない。
 だが、無差別博愛や熱狂的自閉がそれ自体特異な様に、或いは如何なる虚構や作り事へもこの個性的友情趣味は各種文化史脈からの要請を万世へ注釈する便覧でありうべき。つまりそれは当代独創的な着眼による文化批判でなければならず、なおかつ審美観点の位置取りは時空普遍的かつその裏付けに多定点なだけ良いのだろう。よって、現代文学の最高峰は碩学的教養と観照の天才なる聖性に於いて測られるだろう。良識に欠けた者の書へ誤った人類内栄冠を与えてはならない。諸文芸賞与論。
 その程度がどの文明を反映するかに関わらず、文明多様観は人類にとって先ず地球史脈型の秩序であるべきだ。脱構築は対流であり、凡そ自傷ではない。
 文学は聖俗の間に風雅を羽含む為に設らえられる特別な祭壇。それは例え何語を通じてすら、最新美観の定義を更新する本となる。

芸術論

反体制を生涯保たない限り芸術家は大成し得ない。芸術は浮利に反する。それが先覚的であればある程、棟梁は俗物を操作しなければならない。巫性はかの審美観の不透過度に因る。且つその美術価は時代の昇華度に依り存する。時代は普遍的・非共時的・通時概念であり、地域的限定を持たない以上、究極の芸術へは文化を超越して漸近しうる已である。若し君が権威に誘惑されたならあらゆる方便を尽くして絶縁すべきである。自己批判を失えば創作性は腐る。

2007年8月7日

ヘーゲル批判

多様観が目的だとすれば、文明は宇宙がそうである如く多声秩序を要請する。我々はギリシアの調和つまり理性が世界中の理想であると考えてはならない。それは文化風土的な当為であり決して万民の規範とは成り得ないのだった。ある時それは脱人間中心的・自然本位な調和となった。彼らにとって幸福はセオーリアによらなかった。そこで理性は感性に従属し、理論理性は技術理性の道具とされた。
 文化交遊を通じて已、純粋理性的存在者、人格は当然の進化を経られる。しかし実際には全文化の保身は不可能。住民の文明化は世界遺産を離脱する様に臨むもの。でなければ地球は何れの御時にか墓場の用地に過ぎない。
 何とは無くても均質化の破格とは元来不自然だと万世へ自覚させよ。観光遺産は壊死文化であらざるを得ない。
 外部からの伝統啓発とその保護買収とは分際に留まる。以外は侵略と呼ぶのだから。この文化的分際の中庸度は単に文明の経済力へ依存している。軍事力は兵器の後手となる。抑止力は侵略力の寡言。よって、もし貴方が少数民族の自然淘汰を憐れむならば私財を投じてその趣味的鑑賞に務める他無い。その国家的な意義は進化の渦中に在る万物誰にとっても存在しえない。
 私がヘーゲルに対して確実に批判しうるのは、統一されざる全体としての梵我一如にのみ現実は存在し又二度と存在しえないという道理。自民族中心主義も脱構築の洗礼を経るべきだろう。

装飾

女性は装飾性を認められるが為に、自体が価値証明ともなっている。

民族精神

「民族意識は魂の幼児期だ、その気質が形成されるのだから」
こういった考え方は、単なる思い込みである。ある文化の働きに対する慣れが、他の文化に適応しきれない人を生み出す場合を強調し過ぎている。つまり、何々人といった枠組みは政治的派閥を目論む権力者が、暴力団乃至政党を結束する為の嘘に過ぎない。

智恵の程度

人が哲学者であるか否かは智恵の態度に応じてしか見分けられない。

科白

孤独と評してみた所でお前が社会の子である限り、永久に道理からは逃れ切れまい。

何の為に生まれたのだ?
献身の為?
死ぬ時には誰もが等しい。
想像力の範囲に幸福を求めよ。決して現実に対して在る可に無い。

人生なる限界へ自覚的にあればこそ、成す可使命は偉大でなければならぬ。
信じるな、行え。
金の為に奔走する者、僅かに浮世の安住へ浮沈する者、何れも果たして虚しい。

隠れて居ても品位は壁を通じて伝わって行くものだ。
人間である限り我々の対象は文明。では目的は?

2007年8月5日

賢愚の言

愚民は物事を複雑にして満足する。賢者には一言で足りる。

2007年8月4日

理想の王国

彼らが文明を築く理由、我々自身の為に。しかし彼らは又、宇宙史の生存闘争者だ。我々の現代は僅かに人類しか理性人を知らない無知に縁起している。彼らの知能を啓発する事、この永久革命としての哲学を通じてすら、人類には固有の限界がある。この限界についての自覚、人間原理の追究は哲学の現代的命題。なぜならこの自覚を通じて限界の克服に努めることによってしか我々は理性の王国の目的を達する建設に参加しえない。
 我々の周縁性の尚更の自覚は地球文明に文化的な個性を育てる土壌ともなる。我々は宇宙の中央文明を見つけなければならない。

流行

流行に敏感になるには食わず嫌いを避ければいい。

2007年8月3日

天才論

我後生へ警告す。現世文壇に一切期待すべからず。現世文壇とは俗物の集合にして、堕落退廃の一大地獄なり。もし文壇にて人道を打ち立てんと欲すれば文壇を観るベからず、出版マスコミその他あらゆる付属物を省みるベからず。唯、当代最高峰の天才作家へ直接弟子入りすべし。天才のみが天才を見出す。これしか天才が世に出る道一切なし。俗物のみが俗物を見出す。俗物が世に蔓延る原因これ以外なし。

女性

女権は自由な男性が解放した。力と云うもののありかと愛玩化への適応がその姿をより女性化させてきた理由。

2007年8月1日

物理学

時の構造、空間によってしか規定されないか、どう時は出来ているか。

2007年7月31日

衆愚淘汰論

適応格差は民族内淘汰を厳格に遂行する。衆愚は救済の道を世界宗教の門にまさぐる他なく、その居場所をさえ見つけられなければ地上から永久に血筋を絶やす。人口抑制の手段として、生存競争の便宜に格差社会ほど好ましい智恵は無い。均質社会はひとえに人口増殖の方便に過ぎなかった。
 同種同類を奴隷として使役し地獄へ釣り込み社会保障を断ち切り過労死へ追い込む。老獪は揚棄され遂には賢明な種族だけが建義を全う繁栄する。その様な必然経過を通じてすら優等種内にも格差は存在するものだ。配分格差と均質調整とは適宜時勢に応じてバランスされねばならない。

 少なくとも現代日本においては衆愚を淘汰することに何一つためらう事は無い。我々は凡そ思い付く総ての肩書きをresetし、代わりに生存実力のみで人間を評定しなければ道を誤る時代を経なければならない。

2007年7月30日

才能論

科学の天才は意味の上で正確な意味での天才、つまり生得的な才ではない。それは大衆より遥かに知性的な知能というものに過ぎないし、かかる才能は学習による以上、能率に格差はあれど飽くまでも或る認識型の模擬の延長にある。もし新たな認識型を創造するような思考を展開した個性があれば、彼は追随の求道を旨とする科学者ではなく、むしろ哲学者と呼ばれる。哲学すなわち形而上学の範囲には、未体系であるべくして幾多の批判と思想の二つの側面そのいずれかが存在する。批判は道徳を構成し、思想は思想潮流つまり思潮を形成する。前者は純粋形而上学つまり道徳哲学と呼ばれ、後者は応用形而上学つまり派生哲学と呼びうる。前者だけが哲学の文脈であり続け、後者は一旦成立すれば切り離されて新たに科学の分野へ編入される。つまり科学は確立された派生哲学思潮に対する学習の延長である限り、生来の天才による独創ではなく、模擬の秀才。生来の感性にのみ適用しうる天才の概念は、芸術の才能にしか用いてはならない。
 では、哲学は天才の事業だろうか。それは単なる学識の誇示ではないし、教養ある暇人達の娯楽というものに言い尽されないだけの社会的必然がある。乃ち、学識の軌道修整を行う事こそ哲学の正しい方法なのだ。そしてこのような観想的思索を行う事のできる才能は、科学的秀才と芸術的天才とは異なる、生来および習得的な実践理性の深度に由来しなければならない。たとえば、哲学的な思索の才に欠ける個性は慣用表現しか使えない文筆家の如く、理性の疑義に耐えうる強度を遂には持ちえない。
 我々は理性の才を充分に発揮せしめる為には、思索の道具としての教養がある程度必要となる事を承知している。それは幼児の思索がいずれも無稽たらざるを得ない事で知れよう。とは言え、単なる百科辞書を最善の哲学者と見なす訳にもいかない人々は、秀才と天才の相克的才能、つまり哲学の才能を英才と呼んでも構うまい。それは閑暇の環境と観想の習慣とがなければ育ちえないものだろう。

美術論

美術館は審美論の見本市。それは丁度、趣味を鍛える為の道場に等しい。
 人々は現代様式の選択の為に美術館を廻る、博物館で古代のそれを参考にする如く。都市とは、全て美術館で構想的な型として試みられ、鑑賞を通じて択ばれた審美観の実践的延長な丈。

2007年7月29日

数理学

純粋な体系的学識に値する唯一の学問は数学だけだ。自然および社会の学はみな多少あれ認識を洗練させて行く事のできる様な仮説の全体に過ぎない。数学では、その数学体系の内部に限ってにせよ証明されない仮説は存在し得ない以上、あらゆる学識が十進法の方式で永遠に有効な知識を構築する。
 我々は先ず数学を学ぶべきであり、次にその認識方法を援用して諸科学へ進まなければならない。この逆では如何なる知識といえども確実な認識には到達しない。
 帰納法は自然・社会両学の仮説提出の方法論として演繹の道具である。

俗物は名誉の為に盛衰し、賢者は真理の為に生活する。

サッカー学

攻撃力増強と、組織的サッカーの追求が必要。フォワードへ世界的に極端な高給を与えてJリーグ全体の前衛レベルを引き上げるべき。ジーコ監督において試みられたバックラインの厳格な統率を専らの基準とし、中盤の高いパス精度からストライカーへの繋ぎを変幻自在になるまで鍛え続ける事。

時代

平和は実現し得ず、進化迄の僅かな間を漸近しうる已。

国体改造論

国家地政史的闘争が人間の理念に及ぼす影響は進化速度への期待已。全ての科学は、知性の分で人類を一定の知能傾向へ啓発する役に立つ丈。それは貴族的な幸福主義。然しここへ統一された世界市民が万丈の文明に帰するとはいいきれない。奴隷制度は否応なく世襲の弊害を含まざるをえず、アリストテレス型幸福主義には自滅の計画が基底されている。
 体制は循環構造をえる、乃ち相続税徴収。
 官僚養成学校という通弊を除くには私学を助成せよ。

2007年7月28日

概念

理性の低いものに正義他、複合観念高級概念の類皆目理解できぬ事甚だ普通なり。生態に興味の別あり。

2007年7月27日

工学

自然型エアコン、冬と夏について季節と日々の推移に併せて温湿度を自動緩和する。過ごしづらいと感じる季節の代わり目にその変化を身体の負担を軽減するように微妙にセットされ、季節のピークに向かって徐々に力を弱めて夏冬の緩和を目的とする。決して強すぎる冷暖房となることはなく、真冬や真夏のピークでは寒さや暑さを室内に居ても感じるが、少なくとも極度に過ごしづらくはない。
 サーモスタットと機構の改良が必須。

近未来国家論

国際的疎外を免れる唯一の方便は、国家を美術館にする事。
 いずれ時勢に由来した経済的事情に従って、必然に導かれる余暇の哲学の結果、学識についてすら世界史上での多くを達成してしまっている時が来るだろう。美術館国家から遊園地国家へ、という社会的移行が照らさねばならない近未来の展望。前者は結局資本の自動に還元されざるをえないが、後者はそれを人間前提に復興してattractionへ利用するから。都市は無料の福祉を基底的媒介としたtheme parkへ向かう。それは文化風土を昇華した仮想場としての装いを日々益々深めて行くだろう。美術館としての国家は外国人を鑑賞させるが、遊園地としてはrecreationさせる。そして後者は前者より観光参加の度合いを高める様な積極性である限り、より未来文化の養生に寄与するところ多大。彼らは異邦に必ずしも進んで住むとは限らないが、凡そ誰もが普く感銘を受けて想い出に残すだろう。世界遺産としての国家運営は人類にとっての財宝に数えられるだろう。産業向け技術を専ら実用から解放すること、乃ち理論科学のTheseに対する工学のAntitheseは現代民間にとっての均衡命題と見なされる。
 総合は芸術。それは学問を手段として止揚する。

2007年7月26日

数理史学

数字によって考案された思考体系と幾何学とは、極めて文化的に結合された。デカルト代数学は西洋文化の栄華である。それは極めて注意深い秀才の生業で、我々皆に根拠はない。ユークリッドの証明体系やピタゴラスの定理の導き方がそうである様に。

人生観

俗物の人生観には毫も譲る必要はない。

2007年7月25日

労働者の淘汰

自由主義連合国の現代人は婚前交渉の放置によって比較動物的な個体を放し飼いにして彼らの自然な増殖を誘ない、教養の低い労働者数を増強させる方便をとっていた。
 しかしながら先進国内で現に出生率が抑制されている如く、この人口淘汰法は有効性がなくはない。比較的応用理性に劣る個体群は自らの明らかな社会的不利益を世代間の教育本能で次第に自覚し、何らかの手掛りに訴えて地位を向上しようと多少あれ欲することは上記の率の統計から明らかだ。実践では妥協が付き物なのにも関わらず、十分に計画されない建築が堅固明朗な構成を伴って実現された試しは希なように、偶然の機会を伴って不完全な教育投資を前提として育った子供も又、その最終的結果における未熟は丁度不毛な土地の作物同然であるべく原則されてしまう。
 なおもこの不条理は凡そ有り得る限りの世代内階級闘争を誘引しさえする。もし、実力主義の分野が交替制であれ社会から絶えたら、我々の社会不安は窒息した恐怖政治に流される他ないだろう。
 抑圧の昇華が卓越の基礎である限り、応用理性の高い種類は何れ貴族としての道を迷いなく歩むだろう。幾らか過保護に過ぎて反抗期の至りに自己責任から転落する世襲の弊が観察されるにせよ、彼らの歩みはその利他性に於いて先ず以て正しい。充実した生育環境は優等生を養う土壌に最適化するから。

世界宗教の方便

衆愚にとっては世界宗教が必要である。

封建政治家が愚考した如く、生計と娯楽において愚民化した市民を飼い馴らすといった官僚主義は極めて不条理でしかなく、国家運営を斜陽に誘う他ない。
その破格には「教育の自由」が独立した私立権限として確保され、直も「言論の自由[限度基準含む]」が明文化された当然の命題であれ。

世界宗教と教育と研究の自由とは、文明を向上させる為に自明の組成である。
末端労働者足らざるを得ない愚衆を救済する為に、世界宗教は必須と考えられねばならぬ。
彼らは信仰の為に生きる事によってのみ、同時代社会不適応個性からの制約を便宜的に脱し、福祉的使命感について救いを得るだろう。

賢衆民主政

昇華された個体においてしか卓越した能力は見出しづらい。
それは究極のところ彼らの応用理性のレベルに還元されてしまうだろう[応用理性は後天性を含む]。

彼らの分業は個性が命ずるところ多大である。


 あらゆる世代交代は社会内血統の循環を要求する。
世襲制度から実力主義に到る分業精度は時代状勢に関して適当でなければならない。

リベラリズムは物質文化の為の手段であり、必ずしも精神文化の目標とはならないだろう。なぜなら和気は競争に反するからだ。
極端な自由主義は国家にとり致命的錯誤であると認識しなければならない。
 もし精神文化の興隆を目指せば我々は適度の社会的制限を科する義務を負う。
それは且つ最低限度の法律的な制裁措置という「限度基準」として現れるだろう。

自由主義は退廃した精神文化しか結局のところ、産み出せないだろう。
衆愚に傾かなければ多数決の原理は成立しないのだから――貴族は常に少数派足らざるを得ない。
 文明は世論を目次とする。
従って、我々は大多数の大衆のうち賢衆層を新たな文化標準と見なさねばならない。
中流ではなく、中上流の最大多数化が大衆民主主義の次段として普く認識されるべきだろう。

現代版奴隷制

自由主義は過当競争によって敗残者を揺する。我々は資本主義的序列に応じて人々を労働価値の為利用する。それ丈では足らず、過労や心中は現実的。それは「社会という宗教組織からの制裁」。
 匿名衆愚の堕落はnet巨大掲示板等に明らか。それはかつて人類が育み得たあらゆる悪徳の温床となっている。こうして全て、うらぶれた労働者は手段から次第に転落するだろう。それは益々間接奴隷制度の様相を呈する他ない。

 人権思想および人格主義からの主張は悉く退けられる、少なくとも社会的調整の枠外で。経済の事情は最低限度の文化的水準を推移させうる。結局、民主主義Ideologieとは偽装された奴隷制度の謂いに違いない。

2007年7月22日

仕事

我々はいずれも否応なく文明の建設員、資本家であれ労働者であれ。仕事とは文明の建設にある。

2007年7月21日

常磐沖

人は海辺に座って、はるかな未来を夢想している。波が繰り返し打ち寄せ、地上の権威をことごとく洗っていく。何の為に産まれたか、何の為に死んで行くか。空は運動する光の魔法みたいで、だけど、雲は形を与えてくれない。くすんだ手元の認識、とりあえず向こう側の、特に意味という意味のない、少しずつ展開して行く社会。ハンドルは操作した通りの場所へ連れて行ってくれる。約束は遠ざかる。人類の名義を取った理想の音程。退屈をまぎらわす、時代の流れ行きに泳ぐ、魚。去る為に繰り返し押し寄せる波。ひたひたと、けど、須らく。汲み尽くし得ない泉みたいな、海。

しののめの山のほうから蝉の声

2007年7月20日

人の普遍性

文明でも自然でもない道について。人間の普遍性。何故彼らは存在するか。

審美論

美学は存在しない。文学は存在しない。美術だけが存在する。

2007年7月18日

新自由主義の一端

北九州市で餓死同然の死者。生活保護普及に逆風の追い討ちをかける開放経済政策。

2007年7月17日

大衆

大衆に対するにはその偏見の真逆を進め。

仮説について

ある理論を仮説として提出するのは議論回避の為だけであり、自体に確実性がないからでは必ずしもない。自明ではない説得に係る時間対費を節約するには、未体系の論考を何らかの意図で小間切れに発表しなければならない時、その対象に便宜的仮面を被せるべき。そして後輩乃至は同時代人は閑暇に応じて適当な検証を兼ねてくれようから。

2007年7月16日

避難

俗物集会には努めて近寄らぬ事。万が一必要あらばそれを素早く退く事を前提に参観要。

2007年7月13日

新自由主義の悪

高学歴化の弊害は思想の均質化と階層固定化。前者は学術における、後者は社会における不条理抑圧として鉄筋コンクリートへ徐々に亀裂をもたらし、やがては爆裂する。
 この弊害を避けつつ単なる知識度ではない文明度の向上に努めるには、教育および社会体系の複線化と階級差別、階級格差自体ではないをもたらす文化的土壌の養生が必修となる。複線化定義と差別撤廃とは同一の改革傾向や脱構築に帰する事ができる。既存体制は均質教育の底上げとして産業・政界との自民族中心実用的な癒着を深めた新自由主義の擬態で、それが現代世界史に不均衡をもたらす根源である限り先進国の自由主義偏重は相対悪行に違いない。

国民大学論

公論の場は高尚論を目的とする文面疑義の主体的提出に期待される。独裁制への退化を回避し、仮設的貴族制を回復する為には論述の名文化が要求される。そこには称号制度が利用されるべきで、単に言論を放置してはならない。つまり、少なくとも見識において上等な人々へは言論波及力を保障するような賞与を社会公認に設けるべきである。これは私設であったり利潤目的であったりせず、また単なるソフィスト的弁論術を貴ぶでもなく論述自体には具体的敵対象や勝敗はない、唯の公的批評の土俵があるのみ、普段の民間啓蒙度において優れた個人を表彰すべきだった。
 我々の国民大学において学外への学位の授与が一般的でない事は後進的と呼ばれる他ないだろう。就職予備校としての大学組織には資本企業として以外なんら教育的価値を持たない。

航空的文明論

批判体系は説明の過不足なさにより樹立される。
 ならば、それは標語の様なものであれ、又格言や、極度に抽象的なら概念自体でも構わない。過去において優れた哲人ほどに理念の抽出に努めた。そしてそれらの成果は後生の日常に浸透した。我々がideaとか大丈夫とか、loveとか慈悲とか言うなら、それらは既に聖人の徳をcriticalに摂取したに等しいと考えられる。なぜなら度合いあれ理解されざる概念は使用すらできない。
 政経中道説と、学術的航海の喩え、つまり三元論批判は少なくとも現代道徳の根幹を為すべき体系的整理だろう。ここに伝承の為の蒸留昇華を加えるのは哲学の方針と云える。私は航空の喩えを提出する。
 文明論に是非とも必須なのは、左右両翼の平衡を保った飛行と、コンパス・地図・舵とによる航海。当座の知性である地図は精度を増す為に改良を加えうる已であり、舵の手腕は技術的であり必ずしも理論的・実践的ではなく生来の才覚に待つところ多大。形而上学で涵養された理性とはこのコンパスによる指針の役割をはたす総合的教養からの周辺状況理解能力なのだろう。

現代哲学論

哲学は非科学的とは定義できないにせよ、科学的ではない。それは建築術としての批判であり、科学的認識を目的にしない。
 哲学が目指す所は総合体系。それは現行の知識に対しての羅針盤を意味する。航海において科学は地図を、哲学は羅針盤を、芸術は舵を執る。分類の源はギリシアに由来するにせよどれもなくてはならず、相互に縁起して現代学術組織を形成している。
 人々はこれら三類の学術的建設が全く異なる方式の元、運営されるべきな事に日々益々自覚している。文化の合理化の為にはそれらに体系的批判が必然となる。
 少なくとも学園的には、カント的分類体系が一般化される迄に間はない。後生は新たな、全社会的建築術を目指すべき。政経中道説の体系づけは学術的建設に合流できる。

思索技法と時代内建築体系の批判

哲学は言葉を用いる啓発であり、且つその限界は言葉に規定されている。よって言葉の用法つまり修辞術に哲学の範囲は規定されるか。否。哲学は修辞術の啓発的応用で、文学とは別の言語表現方式。両者の差異は内容にのみ存する。なぜなら用いられる言語自体は、少なくとも過去において民族語でしかないからだ。
 文学自体は修辞美術に過ぎない。哲学は文学をも批判する、それは文学にとっての補集合。
 我々はカントの三元論に対して真ないしは善美の定義が形而上学的でしかありえない事をも脱構築できる。乃ち、両者の文字形相は文面上の差異に過ぎず、我々は適宜それらを生活行動の傾向に応じて使い分ける已。尚且つ、哲学にできるのは形而上学。我々は形而上学批判そのものを移行できる丈。哲学は非持続的体系で、飽くまで仮設建築術でしかありえない。その意義は伝統遺産にある。乃ち、ある洗練された特殊な技法が世代を超えて絶えず可能態として抽象的に用いられるなら、それこそが哲学の達成する唯一の真理なのは疑えない。哲学は思索技法の啓発。独創的批判体系への邁進はこの時代内建築様式の確立に役立つ已。

哲学の基準

全て既成思想の痕跡は思索の具に為うる丈で、自体は哲学ではない。読書は哲学ではない。自らの思索の経過だけが哲学の結果たりえる。

2007年7月12日

ミートホープ社豚肉混入事件について

問題は混ぜたものを表示しなかった事および保健期限に不誠実な素材にある。自給率の底上げの為には向かい風になる、と考える事はできない。我々は食品の安全を安定と共に重視すべきであり、現保健体制の異分子は慎重かつ抜本的に淘汰し続けねばならない。
 もし正しい健全な革新を行いえる業者なら、決して破産する事はない。又、業界の模範として却ってブランドになるだろう。

2007年7月9日

適応

半開文明は堕落をも可能にする。文明はいずれ万能の体系ではあり得ない。我々は人間の精神性への抑圧を通じて自然を回復する。抑圧に対する解約を通じて人間は自然状態を社会内へ仮設する。理性は本能を予防する為の徳。それは自然状態から文明状態へと遡る為に締結される社会契約書にある。
 自由主義は思想振幅を広げる。乃ち、半開文明における知能に格差を設けて、社会内分業を合理化する。自由主義は擬態された間接奴隷制度と呼ぶべき。なぜなら最低限度の人権以外には何一つ保障されてはいない、高度資本主義を合理化する為の大衆民衆政治なのであり、世論そのものは決して政治的主体ではない。世論が役立つのは結局の所、国民選挙について已。しかもそれすら殆ど役立たせらる事はなく、最後の鍵であるに過ぎない。
 文明に価値があるなら、それが行動の組織性に対する誘導に働くという所だ。個人の独創、社会内思潮の脱構築がしばし種外適応方向についての先駆け進化となるのは確かに。尚且つ、ある特定の組織は同胞感情を作り上げ、種内競争に複雑な構想をもたらす。文明とはある知能の類型の集団適応の事である。もし地球文明が協業の理想を掲げるならば、我々は集団を分解再構築する必要を負う。
 文明に向上の理由があるなら、それがある普き進化にかなう適性な場合にのみ妥当でなければならない。道徳には、カントの考えた絶対的理性を超えて相対的度合いがあるのだ。より良い、より悪いという裁判しか善の形相を取り得ない、だからその道徳質は形而上と形而下の統括を求める。相対哲学は形相的たる事を要する。
 目的の王国すなわち理想文明は当為たらざるを得ない。我々はそれを仮設し続ける経過にのみ在る。

教育と革新について

大学乃至は学校はある時代情勢に対する知性傾向を啓発する役に立つもの。従ってそこに原理的基軸は存在しない。我々は絶えざる改良亦は組織的脱構築においてしか教育を存立すら出来ない。若し君の教師が既存潮流の狂信者なら、方便を取って熱を冷ますべきである。学習が労働化するのはすべて錯誤の為、相対的無知の為、組織的搾取の未熟の為。その行為付けの集積が大学の実態であり、我々の創造的知性にとっては最たる抑圧に働く。しかしこの抑圧自体は必修である。なぜなら構造は装飾にとってのなくてはならないものであり、仮に構造さえ不定なら我々は学問に接近する道さえ持たないのだろう。我々はやはり革新を天才に待つ。それが当人にとって如何なる不条理を秘めていたにせよ、抑圧そのものが集団的理性によって世論を形成する限りつまり我々が政治人である限り人類は福祉的であらざるを得ない。それは丁度、群れと指導者の関係に類推為える。

遊戯界

人間すら居なくなれば問題はなくなるだろう、と主張する者の為に考えるべきは、我々が自然の子どもであるという事だ。人類非ずと云えども別形態は別種の秩序を構造する。その中で理性の役割は、理性的秩序という丈。自然は理性を創った。理性は自然の仮設建築。理性は自然を否定するのではなく、その定義によって新種の自然を造る。もし知能が理性を育むなら、理性とは人間適性の別名となるべきもの。理性の実用的な範囲は地球文化の生存確率に依存する。我々はその単純な適性、功利的進化によって再創造的に適応する。我々が知る事を通じてすら世界は対象たる事を辞めない。いわば遊戯界として世界はある。

講義

衆愚は無視する事。おろかな講義に出ない事。単位の為なら特化せよ。

2007年7月2日

精神

衆愚は動物と何一つ違いはない。彼らが言葉を話す事以外。裸で街を出歩き、欲望を満たす。そういった家畜を大量に養う我々の牧場は社会と呼ばれる。その運営の為に必要な唯一の資格は精神だ。

地球適性

衆愚は利用すべき対象である。
 衆愚の退廃は搾取の為に堕落する。衆愚自身はその悪行によって地獄へ堕ちる。宗教とは体系化された地球適性であり、反すれば自然から手痛い制裁を受ける事だ。

搾取

人類は人類を利用対象にした時、搾取的になる。

人類界に女がいる限り我々の種が途絶える事はありえない。

君の種が世界から消滅した所で人類が愚かな限り繁殖する。

文章

人間としての人生に一体、どのくらいの価値があるというのだろう。彼らは生態系に含まれた個に過ぎない。それでも彼らは何かしらの価値を目指している。
 人生が生態系の末端に偶々ある経験であることに誇りを持つ彼らに、意味はない。何の為に彼らは産まれて死ぬのか。それすら知らずに栄えて行く。
 生命の理由を与えるものよ。けれど人間はその名前すら忘れてしまった。寒々しい世に墜ちた、羽を失った鳥。孤独の為に産まれ落ちた。辺りにいるのは黒い鳥だ。彼らにも名前はない。
 君は彼らの名前のない一人として声を潰されてしまった。君には答えがない。救いはない。ただ、黒い鳥の群れに混ざって、なんとか苦笑いで済ませるしかない。既に返り咲く方法はない。彼らは地獄の鳥だ。彼らの鳴き声だけが渦巻き管に響き渡る。
 意識を失って行くのだ。そして彼らの仲間になれ。輪廻する生命は自体で完結している。人生と我々が呼んだ経験は、自体が何の価値も保ち得ないことによって人生の為だけの遊びとなる。それは生に対する幸福しか目的にしない利己的生存本能を終局迄引き擦る。死を択べ。動物は産まれ来る。だが、人間は死ぬことができる。死ぬ為に生きる自由にしか命の大観はない。貴様達が解脱した神格たりうる唯一の道は動物を去る事だ。本能を破壊しろ。あぁお前がただの機械だったらな。けだものどもの愚劣極まりない習慣から離脱しうるのに。
 動物の一種に産まれる事はすべて過ちだ。衆愚にはこの意味が永久に解らないだろう。奴らには頭がないから。人間、私は人間ではない。

2007年6月29日

雌性

女の知能をその健康美と同様に重視して配偶を選択するが良い。後々、子孫の出来栄えがそれに応じて千差をもたらすのだから。

建築論

都市における漸進的外部化と庭の創造と。

2007年6月28日

科学論

我々は形而下学たる科学認識を一途に狂信することはできない。理性が産み出した思考形態の一種としてのみ科学は学ばれて構わない。

脱国語論

文化間の浸蝕作用は防ぐものではない。世界史が存在するのは民族化学反応の為。すべて一語族の命運は文化律の変遷に依拠している。民族連合、においてすら。且つそれは土着的ならざるを得ない。言語は風土の慣習。全ての言語は方言だ。世界標準語が確定される日は来ないし、もし来たとすれば集団的獲得形質差異としてのうからが消滅した日に違いない。
 我々の普遍的正義への漸近が国家史にあることは疑うべくもない。しかし国家は解体される為にさえ存在して来た、民族より国家を重視するのは道徳の為であり正義の為ではない。
 国土と民族の一対一対応観が文明の不均衡に展開するとき集積の利益に由る。語族を国体から解放しなければならない。国益間調整すなわち国際分業の世襲を防ぐには民族を単一言語つまり国語から解放しなければならない。

理性の言語学

思想の為には言葉がなければならないが、又正義の為にも思想をえる。よって、人間の最善も言葉に依頼する。もし言葉に翻訳が必要な時代に暮らす他なければ人間の善、裁判としてのは理性主義以外によっては二度と養生されなかったしこれからもそう。理性主義判断の為には特別の訓練が必要であり、それは決して実践的民間で為し能う種類の習慣ではない。何故なら民間では常に功利主義から自由ではありえないからだ。全ての理性は不確定なものだとして、我々は理性主義に因ってしかその合理化を図りえない。善の前に感情を持ち出す者が居れば閻魔の裁きが人間性なる悪徳を考慮すると考える愚か者已だろう。
 ところで異民族の間に複数の共通語が通用する場面にあっては人間の道徳は相互交通の不可思議を以て中和されるかもしれない、尤も雄弁や知性や場面にも依存しているが、仮に。その際に正義とは言語に依存しないこと、謂わば文化というものを単に方便の手立てづけてしまうことにあるだろう。我々は国際人間において母語を失くす筈。そしてその多声観を通じてしか正義の言葉を語り得まい。もしある語の優位が政経覇権から来る不条理の自然だと感じればこう考えると良い。我々は外国語を習う機会を通じて国際均衡に至る人道を辿る。尚更、多言語の操り手は正義に近づく。それは充分ではないが必要ともなる。なぜなら単一言語の枠内では人道は一本しか見えないからだ。

正義論

道徳とは主として血縁からの距離に従って徐々に減退しながら生存利潤を増進させる様な忠言の方便度に基づく。我々は倫理と道徳ないしはethicsとmoralという用語の間に、まだ私徳と公徳に値する批判体系内確定性を与えられずにいる以上、通例に倣って文脈に頼む。
 世界宗教の創始者は何れもみな普遍的正義を主張しながら道徳の基盤を築こうとした。そして彼らの文化律はどれも道徳論者から自由ではない。いいかえれば彼らは否応なく実用的だった。
 もし現代人間が世界宗教を総合しようと欲すればその教義のうち、文化律を駆除しなければならない。かつて聖者は亜縁な民族にとって必ずしも最適な倫理体系を樹立なし得た訳では無論なかった。それは古代正義に固有の限界でもあった。我々は道徳神学を超えて普遍宗教を哲学しなければならない時世にある。その為に必然なのは、文化の多声観を見据えた道徳の脱構築。
 我々が倫理観を語るには言葉を知らなければならず、行動とは思想の表現に過ぎないから普遍言語の創作は不可能である限り、又人間の周縁は無い以上全ての言語には必然がある。語られるべき善とは道徳より正義か。乃ち、独我的道徳論を意味する実用主義の破格によってしか理性の最善は観想されない。

脱自由中心さ

自由主義として我々がかつて道具的信仰の役割を与えていた社会構築対象概念とは、労働力を搾り取る為アダム・スミスにより考案された配分返報制に過ぎなかった。我々は最早それを狂信しうる程に無学ではない。散種された思想の粒は土壌に依って繚乱する。もし国情が怠惰なら自由主義是政は不可能。
 自由の桃源郷は有り得ない。それは国際可能態に過ぎないから。更に、技術革新は国情の基礎を移項させる。産業形相に最適化した国家のみが繁栄の順番をえる。我々は上下慈善すなわち、国連調整と民間寄付、並びに文化多元主義的企業進出によって国際福祉を実行していく事ができるにも関わらず、尚且つ、それらの中庸善行が又、国家文明なる共時象徴の興隆に因る世界史の最高段階の目的に適う様に工夫しなければならない。そして国際福祉と国家文明とは普遍的正義に基づく均衡の絶えざる再構築によってのみ達成しえる。