2007年8月16日

純潔度

例えば古代日本の社会に於いて、階級や地域に応じて男性の貞操が差ほど重視されなかった背景には地政学的理由がある。それは各国で王権の世襲状態にみられた様に、多妻の種を通じた繁殖速度差により群れ権力を寡占しようとした絶対主義の必然的独裁にともなった文化で、世界宗教からみれば退廃だった。現代でも猿達と同様、商業的大都市圏にこのなごりがみられる。

 近代化が昇華を方便として内発的な発展を志向し、充分な人口密度によって以上の構造から自らを解放しようとしても不思議はない。所がこの様な作為が全ての風土で完全に成功することはないだろう。文化律は、よく特定民族的でさえあるからだ。

 日本人なるものが再創造的な文化規制によって恋愛観念を消化したにせよ、その根本義は独特の慣習へ回収されて行く。夫婦の大倫は男女相互の貞潔によってしか充分に図られ得ない。それは独裁化した天皇家をはじめ古代のどの低落しきったSodom的倭へさえ正妻と他との差別として婚姻関係へ要求されて居た。そもそも性愛倫理の要求は社会秩序である。従って「例外」として一部の絶倫へ白眼視されていたにせよ種に於いて夫婦一対は幸福に値する対称形であり、そこで純潔は主要な善であった。

 婚姻前後に関わらず、他ならぬ一人のみへの献身は男女の関係を信仰の次元に高めた。それは互いの誠実の絶対的な信頼による不即不離の運命共同体を形成せざるを得ない。
 社会階級は経済的偏差によって国家人倫の大本へも微細な民度を配分する。倫理に於いても又、同様に子供の数とその育て方に千差万別の格差が生じる。それは来るべき新たな変化に満ちた時代への適応の準備として蓄えられ、微分されて行く。この流れが逆しまになるのは革命があった時を除いてあり得ない。民族的統一という幻惑の煽動される時はその致命的な危機より勝るはない様に。
 もし純潔が善の規律とされるならそれが階級秩序の方便となる。ある生産制度下で支配と被支配階級の頭数を統率する為にも、倫理は存在する。

 純潔は度合いのみならず尚更信仰を要請する。意思に於いて裏切りが存在した際には既にその定義は失われてしまう。