2007年6月28日

理性の言語学

思想の為には言葉がなければならないが、又正義の為にも思想をえる。よって、人間の最善も言葉に依頼する。もし言葉に翻訳が必要な時代に暮らす他なければ人間の善、裁判としてのは理性主義以外によっては二度と養生されなかったしこれからもそう。理性主義判断の為には特別の訓練が必要であり、それは決して実践的民間で為し能う種類の習慣ではない。何故なら民間では常に功利主義から自由ではありえないからだ。全ての理性は不確定なものだとして、我々は理性主義に因ってしかその合理化を図りえない。善の前に感情を持ち出す者が居れば閻魔の裁きが人間性なる悪徳を考慮すると考える愚か者已だろう。
 ところで異民族の間に複数の共通語が通用する場面にあっては人間の道徳は相互交通の不可思議を以て中和されるかもしれない、尤も雄弁や知性や場面にも依存しているが、仮に。その際に正義とは言語に依存しないこと、謂わば文化というものを単に方便の手立てづけてしまうことにあるだろう。我々は国際人間において母語を失くす筈。そしてその多声観を通じてしか正義の言葉を語り得まい。もしある語の優位が政経覇権から来る不条理の自然だと感じればこう考えると良い。我々は外国語を習う機会を通じて国際均衡に至る人道を辿る。尚更、多言語の操り手は正義に近づく。それは充分ではないが必要ともなる。なぜなら単一言語の枠内では人道は一本しか見えないからだ。