安部晋三氏の国家ヴィジョンには見るべきところも少なくはない。しかし哲学的根拠が不充分なのは疑えない。以下その分析。
智恵と指導力はかなりの程度相関しているだろうが、カントが『永遠平和の為に』で言及するように、哲人政治家はありうべくもない。むしろ実践者として政治家は、飽くまでマキャベリ的であるべきでさえもある。
もしあらゆるアートがテクノロジーの昇華ならばもちろん日本には科学技術創造立国ないしは工学改良の優等生を越えて芸術大国となりうる土壌はあるが、かれの『美しい国へ』に示された政治思想には国民芸術に対する批判的基礎は存在しない。むしろこの点については別によく売れた同時代の俗説『国家の品格』の方に端緒がある。ここでは日本国体の比較的な長所としての感性論が語られるから。尤も、戦前退行的軍隊教育説は凡そ戴けないが。
その美しいという形容詞は単に、彼の政策の持つ曖昧さを象徴した皮肉としても受け取れるのが結果論である。
本の末尾において日本風土へ美しい自然という表現をとることでしかないのなら、政策そのものとは無関係な言葉であったと考えるほうが正しい。氏はおそらく趣味判断に用いる審美用語を国体批判に宛てたことで、新保守主義の文脈を日本人の風情を好む民情において何とか合理化したかったのかもしれない。やはりそこに論理的根拠は存在しないにせよ、文学的には感得しうる方便かもしれない。
だが閣僚の相次ぐスキャンダルによって急に降板しなければならないのは本志からすればさぞかし無念であろう。安部氏に真実の政殉職の大義があれば、再挑戦の機会は将来訪れるであろう。政治とは実践であり、従って現実的経験値が理想より物を言うのは当然でなくてはならない。
私見では政策論中において、軍国復古とも国際的に勘違いされ兼ねない安易な自衛隊海外派遣の正当化と、すでに文明平均からすれば成熟段階にあり逆に資源少国の命運に関わる創造性の養生が要求されている現代日本人の教育の再詰め込み式化を除けば、近未来の国営に関してはあまり巨拷な誤ちはなさそうなものだ。
むしろ理想として低きに過ぎるところも感じられ、江戸における天下泰平、明治における富国強兵、戦後における高度成長といった簡潔な激にまとめるくらいで良いと思う。一端自由化を極限化して事実上民間風紀が破綻してのち、反省と共に福祉建設を目指すべき平成の世ならば、協和超米といった開拓的理念があってよかったのではないか。それはむしろ覇権者との積極的な相務関係を国体啓蒙する役に立っただろう。