2007年9月18日

学術論

猿相手に真剣に論戦を張る者も猿と呼ばれる。もし学者が真に賢明なら、真理に仮説の衣をまとわせて自在に舞わせたらいい。前衛芸術は歴史の向こう側にいる未来人類へ説明すべき。よって、傑作は仕事というより趣味として振る舞う方がずっと利口。作品さえ遺産されれば歴史はその偉業を評価せざるを得ないから。
 あらゆる審美意識は確立した時には既に過去のもの故、同時代を照準にした流行の職業作家はいずれもみな後世の笑い者となる、即ちサロンの戯け。
 ダ・ヴィンチが死の床にまで秘蔵したモナリザが従来の歴史的肖像画や神話偶像図といった説明従属の慣習を排した純粋な人物画の領域を開拓する偉業だった事は、後世から一瞥すれば明らか。即ち、同時代民衆に芸術家本人より正確な審美判断は不可能。なぜなら審美力そのものが独創的な制作の原動力に他ならない。
 歴史に名を留める芸術家の過半が副業や方便としての後援を経由したのは当然。もし職業作家があり得るならそれこそは俗物だろうから。
 理論文明たる学術こそは独創すべきで妥協してはならない。その政治・経済との癒着も害であって益はない。学術家は清貧でなければ歴史の前に無力を晒す他ないだろう。同時代内理解に満足する者は俗物と呼ばれる。成功者としての仮面は飽くまで道具であり、真面目には成り得ない。