2007年11月7日

日文論

漢字は完全に合理化(草書または仮名)も完全に原理化(皆書または象形)もせず、道理化(行書または文化)のさなかに用いる時、最もその真価を発揮する。その行書文には多様性と秩序が程よく折衷されうるから。この原則上ではabc記号の組み合わせ以上の可能性が確保された漢字は、より優れた文字と考えられる。その為、未来に渡って漢字文化の残滓が完全に消失する事はなく、却ってその洗練に及ぶだろう。しかし、日本人にとって漢字は素の言葉を進化させる為の道具であって目的ではない。道具を洗練させる事はあれど行書字自体に文化的終目ががあるのではないと知らねばならない。それは単に近未来和文洗練の頼るに足る一方針でしかない。
 代わりに、日本語は英語とその文の学を通じてより、ことばを文明に自然適応させる事ができる。英語の持った「合理性」を日本語は漢字文化で得た能力を活かしつつ消化していくと良い。例えば体言の訳語・カタカナ語・英字表記、用言への活用有無の摂取消化のみならず、SVOCの組み合わせによる単純な文法やその背景に有する高い論理主義を日本語に対応する文体にして確立する事で、我々は従来の手段を失う事なくより高度な文明を実現しうる。