2007年11月7日

漢字論

国際漢字会議について去る2007年10月31日北京にて、五六千の標準字を定める方針を打ち出したと聞く。
 曰く、中国は簡体字が主導権を握る予測の元に統一によるアジア圏把握を企む。されどわが見解に赴けば、全く不可能なり。簡体字は無理な省略が多すぎ伝統的漢字文化とは断絶したる現代流行語に違いあらず。その将来は中国語話者の間にしか存命せず。この後に及んで日本の漢字(仮に日字と呼ぶ)の未来は如何。あるいは日本文化の未来は如何。

 我結論す。日本人にとって漢字統一は単なる「方便欄」に過ぎず。
 我々は仮名文化のおかげで無闇に画数を減らすため無茶な簡体字を採用する必要は全く無いし、同時に、実用に適さず必ずしも美的とは言えない旧体字(中国風に言えば繁体字)を全面的に復活するべきでもない。日字は漢字文化の伝統に通暁しやすく、同時に合理美化を伴った日本語の一部なのである。つまり、発祥がどうあれ漢字はもはや中国だけのものではない。この点で現在から近い将来に渡り中国人の識者の程度はよく疑義に呈されねばならぬ。よって、日本人にとって漢字は、日字の益々の洗練に向かうべきもので決して折中が主眼となるべきではない。漢字から文化されたものではあれ、日本語における日字は今では、国民全員が読み書きできる「日本の文字」なのだから。

 私は今後の展開によって漢字に標準字の様なものが国際的に制定されるとしたら、それをむしろアジア文字又はアジア字と呼ばざるを得ない。
 確かに標準文字の機能をかつての漢字文化圏の一帯で利便するだろうが、それを全アジア人民が採用するということはあり得ないだろう。むしろ、結果としては、アジアン間意志疎通に潤滑油となると同時に、中国語に旧体字へのかなりの退化が起きるのが落ちであるだろう。口語を基準に据えた簡体字は中国語話者にしか用いられづらいのだから、亜細亜全域に逆進出は二度とない。恐らくは黄河流域の衰亡に伴ってかつての漢文化の栄華を中国は未だ取り戻していないのだ。

 日本人にとってはアジア字は専ら暫く、日字を崩して書く為に方便される方便覧の役目を果たすだろう。一部はさらに便利な字を輸入する場合も考えられなくもないが、亜細亜に文明の輝きが見い出せない現状ではそれも基本的に難しいだろう。漢字の大分は飽くまで原始的象形を起源に根付かせた世界的な後進文字である、という事情に我々は思慮深くなければならない。
 たとえばラテン文字では起源が象形にあるA(アルファ・雄牛)、B(ベータ・家)、M(ミュー・水)(出典『ラテン語とギリシア語』風間喜代三、三省堂)の様な文字でも、或いはソクラテス的伝統に基づいて口語主義的に洗練させた結果、表記文字に性質は非常に近づいた。とはいえかな文字の様全く表意性が消滅した訳ではないのは、発音記号と文章表記が別なので知れる。エジプト起源の象形文字を徐々に西洋風土に根付くよう改良を加えた結果、アルファベット程度まで表意性質を印欧民族は減退させたのだった。
 いわば、我々日本人は将来に渡り日字を完全に捨象するには足らぬ、というのは現状でさえ現代朝鮮語でそうあるようにあらゆる漢字起源の語句を敢えて表音表意しないのだから。「川」を「かわ」とか「セン」とかわざわざ書くことにはどの程度の徳があるだろう。かと言って発音が無用な文字は絵画であって文字ではなく、少なくとも画数・形態・意味を文化的に絶えず検討し直さねばならない。いかにもややこしそうだとはいえ、最も効率的な文字洗練には自然淘汰が望ましい。つまり、各代のまつりびと、文人、たみなどによって使いやすいままに任せておけば最も美しい文学秩序は時代ごとに現れてくる。しかも日本人が常にそうして来たように、時代ごとの変遷を文化的に保存しながら淘汰させる事で我々は温故知新の伝導者になり得るだろう。尚、岡倉天心の『日本美術史』に象形文字は典型的なイメージによって絵画での写実表現を抑制する、という見解あり。象形文字の文化と対応させて比較文化論的な考察が必要である。以上を慮って日本文化の未来を解けば、台湾との関係を親密にもしてきた便宜として、新旧字体の通義便覧としてのみ、日本語にとっての亜細亜文字の立場は適宜採用される。そして日字は日字独自の洗練を尚も続ける。