2007年9月20日

趣味主義論

パスカル曰く、考える葦たる悲惨から目を背け、とるにたらぬ慰めに耽らせる気晴らしは危険なり、と。我答う。いずれすべては気晴らしに過ぎず、と。神の国を建設する為の道程に幾段の階段ありしや我々知らず。されど人間を進化させる原動力は目的的活動、すなわち趣味なり。もし信仰を批判すればそれすなわち神話伝承の趣味にあらずや。どれだけ主義へ熱心淡白にても人間存在これ一個の自由実存に過ぎず。かれが偉大か悲惨か分けるのはただ活動の種類によりけり。人間は人間なり、いかに獣類未満の悪業愚劣を尽くせども、いかに救世主同然の善導を尽くせどもやはりこれ人間の仕業に他ならず。趣味主義は人間個性を容認すなり。主義の自由を気晴らしの方便として寛容すなり。
 ある人曰く、殺人の気晴らしこれ如何、また人事無用のパズルゲームへの熱狂人これ如何、あるいはアブラハムの地にて布教に狂信するキリスト者これ如何などと。我答う、主義は自由なり。気晴らしがなければ人生これ単なる奴隷機械なり。気晴らしの種類に応じては他者に損害を与う場合あり、自己欺瞞に陥り世界独我の発狂をもたらし独裁者や恐怖政治家をも生む危険なきに非ず、されどこれに反して第二第三の才をももたらすに非ずや。自己一個の主人たるには主義もたざるべからず、またこの主義は成長あらばしばしば改新せざるを得ず。
 暇つぶしは理性の自在な発達を養生す。而して人間に気晴らしを許すべし。その功罪の罪の悲惨にのみ目を向け功の偉大を退ける臆病は真の勇気の沙汰にあらぬなり。
 パスカルによるかのごとき対ギリシア保守論客の見解は人類文化に遅滞をもたらすものにして、ヘレニズムの英知をかろんずるヘブライズム偏向の狭量と言わざるべからず。もし賢あらば以上わが述べし見解の善悪をよくよく考察せよ。人間の最高幸福とはなんぞや。和辻曰く幸福は風土的なりと。されどカント曰く、理論という語に最も今も保存される意味で理性の自律した使用はこれすなわち信の行いなり。ならばあらゆる風土的な幸福もまた、様々な文化を通じて信ずべき理性を目的にするのは明らかなりき。文明とはその結果なりし。いかなる未開の部族にも人類ならざるかぎり語族としての文明は存在す。その分妙は必ずしも厳密に決定できずとて、突然変異による種の差異の範囲で仮定し真理へ漸近させることはなしあたうべし。