2007年7月9日

適応

半開文明は堕落をも可能にする。文明はいずれ万能の体系ではあり得ない。我々は人間の精神性への抑圧を通じて自然を回復する。抑圧に対する解約を通じて人間は自然状態を社会内へ仮設する。理性は本能を予防する為の徳。それは自然状態から文明状態へと遡る為に締結される社会契約書にある。
 自由主義は思想振幅を広げる。乃ち、半開文明における知能に格差を設けて、社会内分業を合理化する。自由主義は擬態された間接奴隷制度と呼ぶべき。なぜなら最低限度の人権以外には何一つ保障されてはいない、高度資本主義を合理化する為の大衆民衆政治なのであり、世論そのものは決して政治的主体ではない。世論が役立つのは結局の所、国民選挙について已。しかもそれすら殆ど役立たせらる事はなく、最後の鍵であるに過ぎない。
 文明に価値があるなら、それが行動の組織性に対する誘導に働くという所だ。個人の独創、社会内思潮の脱構築がしばし種外適応方向についての先駆け進化となるのは確かに。尚且つ、ある特定の組織は同胞感情を作り上げ、種内競争に複雑な構想をもたらす。文明とはある知能の類型の集団適応の事である。もし地球文明が協業の理想を掲げるならば、我々は集団を分解再構築する必要を負う。
 文明に向上の理由があるなら、それがある普き進化にかなう適性な場合にのみ妥当でなければならない。道徳には、カントの考えた絶対的理性を超えて相対的度合いがあるのだ。より良い、より悪いという裁判しか善の形相を取り得ない、だからその道徳質は形而上と形而下の統括を求める。相対哲学は形相的たる事を要する。
 目的の王国すなわち理想文明は当為たらざるを得ない。我々はそれを仮設し続ける経過にのみ在る。