2007年9月17日

政治学

政体成長説。
 主権在民の元で行われる間接民主政治は永久に最善の政体というわけには行かないだろう。それは少なくとも悪くはない政治家を構成員全員の了解のもとで選出する、多数決体系の凡例に過ぎない。よってその本質はいかなる方策を取ってすら癒着を催し、漸時堕落せずにはおかない。世襲はこの最悪の結果として現れる。
 民衆政治がいずれもみな衆愚化に陥り壊滅する運命なら、その国家救済を果たしうるのは唯、王者のみ。彼は抜群の指導力によって民族のあいだから突如立ち顕れ、煽動家を悉皆征伐し、大衆からの圧倒的支持を得て新たな王政を築きあげるのだろう。それは民衆が崇拝を仰がざるを得ないカリスマ的な権威によって説明できる。
 権威とは覆せない負債の謂いなら、その様な指導者は何らかの傑出した業績によってのみ育つだろう。なおかつ政治が政治行為によってしか成り立たない限り、恐らくはこのような偉人政治家は政界外部からしか生まれはしないだろう。つまり権威の援用が王者を産む。
 あらゆる王政がまた絶対主義に陥り壊滅する運命ならば、又この様な王者の元で脱出された衆愚政治といえども次の段階では貴族政治への萌芽を残していなければならないだろう。
 もし選挙制度をとっていながらに王権のなごりをとどめた国家に幾分かの慧眼があるとするなら、王政の基盤を抜本しなかった保守性にある。その切株からは新たな芽が萌え出し、やがては実力者同士の貴族階級形成への枝を伸ばすだろう。秋が近づいてくればそれらの若々しい青葉も封建政体に枯れて豊かな実りとして民主革命をもたらすと共に、再び衆愚の冬へと向かって生気を養う準備にかかる。
 政体循環の仮説が正しければ、人類の政治とは絶え間ない新陳代謝の成長に他ならない。その結果、文明そのものの段階は向上して行く。